「どうしてここに?」
 こんな砂漠の中で、選手でもない郷子が一人でいることが不思議だった。やはりオレは幻を見ているのか。
「主催者側が取材用のヘリを飛ばしてくれて、それに乗ってきたの。あと5キロほどでチェックポイントなんだけど、私は昨日から日本チームと行動を共にしているの。だってアシスタント・ポイントだけで取材していても、みんなのリアルな表情を読み取れないから・・・」
「昨日から?・・・それに選手たちと一緒にだって?」
 確かに郷子はツメをマニキュアで赤く染めている類の女ではない。どちらかと言えば健康的な女性で、郷子の言っていた通り、彼女の父親の影響でアウトドアでの経験も積んでいる。しかしこの過酷なレースに参加する選手たちと、たった一日でも行動を共にするなんて、にわかには信じられない話だ。
 オレの心を見透かしたように郷子が言う。
「だって、私は殆どカラミ(山用語で、ザック等を背負っていない状態)だし、食事や飲料も充分に採っている。それにあのコースは特に危険な個所もないし・・・もっとも誰かさんみたいに、危険区域に一人で入って行かなければね」
 そう言いながら、例のいたずらっぽい表情でオレを一瞥した。オレはその意味するところに気づかないフリをして歩き続けた。
「で、そうまでして、希望通りのショットは撮れたの?」
「あー多分・・・」
 そう答えた瞬間、郷子は立ち止まりオレを睨みつけた。
「あー多分ですって! こっちは死ぬくらい心配していたのに、そうまでしたことが「あー多分」なわけ? もう結構! もう勝手にすればいい! 2度と心配なんかしない・・・」
 郷子の目が潤んでいた。
 オナカがきゅっと絞まり、そこから熱いものがこみ上げてきた。
 オレはこの3日間、まったく独りぼっちだった。独りで見知らぬ国の、見知らぬ道を歩き続けていた。郷子はそのオレを心配していた。
「すまなかった・・・自分では納得のいくモノが撮れたと思っている。それに心配してくれて嬉しい・・・どうも有難う」
 郷子はそれを聞くと、じっとオレの顔を見つめていた。
 オレも郷子を見つめ返した。
 潤んでいた瞳から、一粒だけ涙が頬を伝った。
 郷子は俯いて、そのまま囁くように呟いた。
「無事に戻って来て良かった…ううん、きっと約束までに戻ってくると思っていた。そういう人だと…信じてた」
 砂漠を渡る熱い風の中で、その声はほとんど聞き取れないくらいに小さかったが、心の奥深くにしっかりと刻みこまれた。
 ウエストバッグからフィルムを取り出し、それを郷子に渡した。
「これがそのフィルムだ。持っていて欲しい」
 ファースト・ステージが終わった時に、同じように撮影済みのフィルムを手渡したが、郷子はその時以上に、それを両手でしっかりと握り締めた。
 今では、お互いにその意味合いの違いを知っていた。
 そしてそれで充分だった。
 
「美子さんの具合はどう?」
 美子のばっくりと裂けた腕の傷が気がかりだった。
 オレもこの3日間ほどで、腕や足に小さな切り傷や擦り傷を負っていた。通常ならば気が付かないうちに治ってしまうような小さな傷である。しかし栄養不足と不衛生のせいか、そういう細かい傷が一向に良くならない。それどころか知らず知らずのうちににそこに蝿がたかり、傷が膿んでくる。消毒が無理でもせめて洗い流したい。しかしその洗い流す水が無いのだ。
「うん…随分と辛そう…彼女は気丈な人だから表情には出さないけど…昨夜、ガーゼを変える時に見たんだけど、まったく傷が良くなっていないの。確かに出血は止まっているけど、裂けた傷口がくっつく感じじゃなかった」
 次のステージはシーカヤックだ。
 シーカヤックに乗って、オマーン東部の海岸にあるバンダージッサーを出発し、アラビア海沿岸をティウィの町まで、約100キロほど漕ぎ続けなければならない。一生懸命漕ぎ続けても、おそらく2日はかかる距離である。あの傷を負った腕でそれに耐えられるのか。
 
 小高い丘の上に椰子の木が2本立っており、その下の僅かな木陰で4人の選手が休んでいた。遠くからでもユニフォームの色から、それが日本チームであることが判った。その中の一人がこちらのほうに気づいて、立ち上がって小走りに丘を駆け下りて来た。
 田村だ。
 ヤツはどんな状況の中でも、爽やかな笑顔を忘れない。
 オレたちの前まで来ると、グランテトラのボトルを差し出した。
「これ・・・一気にやってください!」
 オレはボトルの栓を抜いて、1滴の水も無駄にしないように慎重に口に運び、田村の言うように一気に飲んだ。
 まるで生き物のように、水は喉から胃袋に落ちて行き、その潤いがからだの隅々まで染み渡っていくような気がした。
 
 チーム全員揃って第5チェック・ポイントを通過し、郷子はそこに残ることになった。
「私はここで取材用のヘリを待って、先にバンダージッサーに行っていると思う。今夜また会いましょう」
 もうすでにすっかりとルートは頭に入っているし、道に迷うこともあるまい。郷子の言う通り、今夜遅くにはバンダージッサーに到着できるだろう。
 我々は、オレが今朝歩いて来た道を歩き始めた。
 相変わらず空腹は続いていたが、少なくとも水があるし、チームのみんなも一緒だった。今朝はあんなに不安な道のりだったが、今では少し懐かしく感じられた。特に例のロバの糞を見付けた場所では、しばらく立ち止まって、そこを見つめ笑顔が浮かんだ。
 ロバの糞を見つめて笑顔を浮かべるなんて、少し不気味な人物のようだが、田村もそう思ったのだろう。
「田島さん、なにか面白いことでも思い出しているのですか?」
 オレは今朝のエピソードを話した。
「ふーん…少し可笑しな話だけど、良く考えると凄いことですよね。ロバの糞からルートを探るなんて…」
 田村はしばらく黙ってオレと並んで歩き、それから言った。
「古屋さん、随分と田島さんのことを心配していましたよ。もう聞いたと思うけど、昨日からずっと我々と一緒に歩いてね。見かけによらずタフな女性ですよ。昨日の昼から行動食のみで我々について来ましたから…夜も一泊だけだからとビビーサックのみで…」
 田村の話を聞いて、なぜか彼女のことを誇らしく感じた。
「美子さんの傷のこと、古屋さんから聞きました?」
 田村は話題を変えた。
 オレは黙って頷いた。
「あれじゃあ次のステージは大変でしょうね…それに潮水が相当に滲みるだろうな…」
「彼女のカヤックのテクはどうなんだ? クライミングと同様にできるのか?」
 オレは田村に尋ねる。
「それが…ウチのチーム全員、カヤックが苦手なんですよ。どちらかというと山が多くて…唯一、阿部さんだけが得意だったんだけど…」
 田村は続ける。
「恐らくボクと堀内が練習の時からペアを組んでいたので、そのままペアを組むと思います。美子さんは練習では阿部さんとペアを組んでいて、木下さんがシングルで乗っていたんですが…」
 そうなるとオレと美子がペアを組むことになるのか。
 まあそれはチームリーダーである木下が決定することだ。もしかして、プライヴェートでも自分のパートナーである美子と組むかもしれない。特に美子があーいう状態では、木下も心配だろう。
 
 夕暮れまでに、我々日本チームは砂漠の山間部を抜け、木々が生い茂る平原へと降りてきた。少し湿った空気が漂い、僅かながらに潮風の匂いがした。海岸に近づいてきているのだろう。
 やはりラッペリングの際には、美子はかなり辛そうな表情を浮かべていた。が、なんとかここまで持ちこたえた。
 このまま行けば、今夜は少し眠れるかもしれない。いずれにしても、暗くなってからではカヤックのスタートは無理だ。明日の早朝まで待たなくてはならないだろう。
 大きな波のように襲う睡魔も、そろそろ限界に近づいてきた。
 オレは柔らかい砂浜に横たわる自分を想像した。今はそれがなによりも魅力的に感じた。
 そしてそこには郷子もいる。
 最後の気力を振り絞り、なんとか眠気を抑えて歩いた。



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