ナツメヤシの甘ったるい香りが漂っていた。 その香りがアラブを感じさせ、さらにイスラムという宗教を思い起こさせた。 イスラムの国に来たのはオマーンが初めてだ。いや、一度、ダイヴィングの為にモルディヴに行ったことがある。だが、モルディヴやインドネシアなど、南の島の豊かな自然が、戒律の厳しいイスラムを感じさせないのは何故だろう。やはりこの宗教が生まれた土地のように、不毛で厳しい大地に、僅かな水だけで生き延びる植物さながらに暮らす民にこそ、イスラムの教えは根付くのではないか。 かつてその著書でイスラムを非難したサルマン・ラシュディに対し、イランのホメイニ師が死刑宣告し、世界に広がるイスラム教徒たちに、事実上のラシュディ暗殺指令を発した事件があったが、国民の殆どがイスラム教徒であるインドネシアでは、このことがまったく話題にならなかったと聞く。 だが今のオレにとっては、その南の島の豊かな自然が、天上の世界のように感じられた。 モルディヴの小さな島、ロフィフシ島でジョギングした時に、そのジョギングする傍らで、マダラトビエイがオレの走る速さに併せるかのようにゆったりと泳いでいた。その透き通った水の清らかさ・・・ジョギング後のペリエ・・・咽喉にちくちくとするような心地良い清涼感・・・水に関する想像すべてが、自分の渇きを際立てさせた。 もう今ではすっかりと日は落ちて、月明かりが岩だらけのガレ場の山肌を僅かに照らし出していた。歩くのにさほど不便はなかったし、いざとなればヘッドランプの電池も余裕があった。だがボトルの水はすっかり空っぽで、その逆に頭の中は水のことでいっぱいだった。 猛暑の渇いた砂漠で、水を求めて歩く男なら簡単に想像できるだろう。しかし今の自分は夜の冷気の中で、寒さを感じながら水を求めている。その状況に戸惑い、苛立ちを感じた。想像が可能な苦しみなら、なんとか耐えることができるような気がする。だが、思ってもいなかった状況に陥ると、精神的な重圧を感じてしまう。なんという弱さだ。 よし、少しザックを下ろして休もう。そしてもう一度、今の状況を整理しよう。それが苦しい状況下でのオレ流のメソッドだ。一度苦しみを清算する。 大きな岩の上にザックを下ろし、その岩にもたれてからだを休めようとしたその時、黒い小さな塊に気が付いた。 もしかして・・・ オレはその塊に顔を近づけた。そしてその正体を知った時に、僅かな希望が湧いてきた。 ロバの糞だ! 人のものを含め、排泄物を認めてこんなに嬉しいことは初めてだ。 ザックの中からヘッドランプを取りだし、それを頭に取り付け、あたりの地面を舐めるように見まわした。目的のモノはすぐに見つかった。 人間の足跡・・・が、それはなんの文様も無い平らな足跡で、あきらかにベドウィンのものだと判別できた。ベドウィンはゴム草履を履いていることが多い。その磨り減ったゴム草履の裏にはなんの形状も認められないのだ。しかしベドウィンたちが歩いた道を丁寧にたどっていくと、きっとレースの参加選手の足跡も見つかるはずである。 オレは再びザックを背負い、僅かな足跡を辿っていった。不思議と、先ほどまで感じていた咽喉の渇きが、少しは緩和されたような気がする。希望が人間に与える肉体的な効果は、これほどまでに強いのだろうか。しかし、その希望が見出せなくなった瞬間、またそれが与える肉体へのダメージが、測りしれなく容赦ないこともオレは十分に認識していた。 あの時・・・オレは希望を持てなかったのだ。そしてそれがオレの体力を根こそぎ奪っていった。そして気が付いた時には、あるはずの手がそこになかった・・・もしあの時、オレに余力があれば・・・もし最後まで希望を捨てない精神的な強さがあれば、彼女を失うことはなかったかもしれない。もしも、もしもあの時・・・ オレは今までに数え切れないほど、繰り返してきたその苦い自問を、頭から締め出すことにした。 今度こそ道に迷わないよう、ヘッドランプに浮かび上がる僅かな道筋を、ゆっくりとした速度で歩いた。気持ちは焦ったが、まだ夜明けまでに4時間はある。もしも夜明けまでに選手の足跡が見つかれば、そこからスピードアップして歩けば良いのだ。距離はそれほどないはずである。 何度かベドウィンの足跡を見失いそうになりながらも、後戻りしつつそれを確認しながら歩いた。再び咽喉の渇きが頭をもたげたが、なるべくその思いを無視することにした。何百回と繰り返されたさきほどの苦い自問も、咽喉の渇きと交互に頭を巡る。それもなんとか無視しようとした。 楽しいイメージが欲しかった。希望を保ちつづけることのできる想像力が必要だった。だが見知らぬ国の暗い夜道を歩いていて、それは不可能に近かった。 ダイヴィングの最中に出会った珍しい、あるいはえもいえぬ美しさの海中生物を思い描くことは容易だった。が、そのイメージはすぐに水に結びつく。そしてそれ以外に心に残る楽しい思い出には、すべて美食が付きまとう。 中目黒の焼き鳥屋のレモンサワー、横浜のスパニッシュ・レストランの風味豊かな赤ワイン、ミコノス島の食堂で出された、水を注ぐと白く濁るウゾー、シエナのタラットリアでサーヴィスされたグラッパ・・・美食と共に飲んだ酒が、次から次へと頭を駆け巡る。だが今のオレに必要な飲み物はただひとつだった。グラス一杯の水が飲みたかった。 「死ぬ前に一杯だけ、美味しいワインを飲むとしたら、あなたはどのワインを選びますか」 このような質問を受けた、世界的に有名なあるソムリエは「一杯の美味しい水を飲んで、この世に別れを告げたい」と答えたと云う。 今は彼の気持ちが痛いほど理解できた。 夜明けを待たずに見付けることができたのは、そのあたりの土壌が少し柔らかかったせいかもしれない。それにその道は、いわゆるT字路のように他の道と合流しており、少しそこで行き先を考えたことも幸いしたかもしれない。土踏まずの「V」の字が判別できるほどはっきりと、ビブラム・ソールの足跡が確認できた。その足跡のつま先はオレが来た方向に向かっており、すでに第5チェックポイントを通過した選手のものであることは明らかだった。ところどころで途切れているものの、その足跡は今でははっきりと識別できる一本の路上に続いており、この道を辿ればチェックポイントに辿りつけるはずだった。 オレは相当な安堵感を覚えたのだろう。昨日から一度も睡眠を取っていないことを急に思い出し、ひどい眠気を感じはじめた。 しかし木下との約束の時間は残り僅かだ。 歩き続けなければ・・・ 確実に目的地に辿りつける。その確信が少しづつではあるがオレの歩を進めさせた。だが、二晩眠っていない疲れと、咽喉の渇き、それに言うまでもなく空腹が、自分の持てる体力と精神力の限界をすでに超えていた。 夜が明けて急速に登り始めた太陽が、すでに白く輝き、咽喉の渇
きに拍車をかける。口の中の舌は他の生き物のように感覚が鈍く、唇を舐めると紙やすりのような感触で、、僅かに血の味がした。 遠くの景色がかすみ、頭の中まで白くかすみ始めた。 楽しい想像をしろ! 自分に言い聞かせる。だが海の想像は駄目だ。 いったいこのやり取りを、昨日から何回続けているんだ。 郷子の顔が思い浮かんだ。 また笑っていた。歯並びがきれいだ。いや少し歯が大きいかもしれない。でもオレは歯が大きい女が好きだ。 遥か道の向こうのほうから、ゴトゥラを羽織った一人のべドウィンが歩いて来る。ラクダには乗っていない。それにベドウィンにしてはさっぱりとした恰好をしている。 オアシスが近いのか・・・それともただの幻に過ぎないのか・・・ 情けないぞ・・・健介! これくらいのことで幻を見るのか・・・ そのベドウィンはこちらに向かってどんどん歩いて来る。近づくにつれ、早足になり、最後には小走りになった。 オレの前で立ち止まると、ゴトゥラを取って文句を言った。 「心配したじゃない・・・でもなんとか間に合ったみたい」 オレはぼんやりと、その口元を眺めた。 やはり郷子の歯並びはきれいだった。 |