海が荒れていた。 風が強く、空には雲ひとつない濃紺の夜明けの青空が広がっていたが、風が波を誘うように海上を素早く駆けまわり、我々の存在を拒んでいるように感じられた。 「昨日まではすごく静かだった…って聞いたけど…」 郷子は沖のほうを不安げに見つめたまま呟いた。 「まるで鏡のような海上を、上位チームの人たちは漕ぎ出して行った、って主催者は言っていた」と郷子は相変わらず海を見たまま続けた。 「で、昨日のうちに出発したチームはどのくらいか、判りますか?」 木下はライフベストを着けて、パドルを左手に持ち、シングル艇のカヤックを右手で抱え、砂浜の海岸に下ろそうとしていた。 昨夜のミーティングで、木下はシングル艇に、田村と堀内がタンデム艇(二人乗り)、そしてもう一艇のタンデムにオレと美子が乗り込むことになっていた。 オレは美子と木下がペアを組めば良いと提案したのだが、練習時のカンを木下が大事にしたいと言うので、それに従った。が、木下は美子がこんな負傷しているのに、まったく気にならないのだろうか? それとも、こういうレースで良い成績を収めようとするのには、そういった個人的な感情は不要なのか? オレには良く理解できなかった。しかし、これは彼らのレースであり、オレはあくまで助っ人の立場なのだ。とやかく言うことでもあるまい。 「はっきりした数は判らないけれど、だいたい15チームほどが昨日のうちに出艇したみたい」 木下の質問に郷子が答えた。 「15か…それじゃあ残り25近いチームが今日出艇するってことになるな」 木下はスプレースカートのバンジーコードをカヤックのコーミングに装着し、出艇の準備を完璧に済ませながら言った。 昨日までのステージで、すでに10チームほどがリタイヤしたと聞いている。それに今日スタートする約25チームも、全員が揃っているわけではない。中には一人、二人とリタイヤし、それでも残ったメンバーでレースを続けているチームもある。 もちろんそういうチームは最後までやり遂げても、完走としては認められないし順位も与えられない。しかし彼らは主催者側が認めようと、認めまいと、このレースを完走したい、という純粋な動機だけでレースを続行しているのだ。そして主催者側も彼らのそういう気持ちを理解しており、レースへの参加を認めている。 すべての参加チームは、日本円にして250万円ほどのエントリーフィーを支払い、いろいろな機材を買い揃え、遠い国からわざわざこのオマーンにやってきてレースに臨んでいるのだ。それくらい主催者も認めないと、あまりにも選手たちが気の毒であろう。 田村と堀内の艇も、我々の艇も、完全に出艇の準備を完了し、今ではカヤックの前半分は海上に浮かんでいる。 「よーし、今日のうちに60から70キロは距離を稼ごう。そして夕暮れには気持ち良さそうな砂浜を見つけてビバーグだ。そして明日の朝、一気にティウイを目指して漕ぐ。そうすれば明日の午後にはティウイに到着だ」 木下が両手で艇を支え、海に滑り出しながらみんなに声を掛ける。そして少し漕ぎ出すと、くるっと向きを変えて海岸の方向に向き直った。そして続ける。 「よーし行こう! 3艇で目視できる範囲で漕いで行こう。あまり離れるなよ!」 田村と堀内が頷く。オレの前にいる美子も頷くのが判った。 「それじゃあティウイで!」と郷子に告げた。 「ティウイで」 郷子はそう言って、右手で口を押さえ、その右手を胸に充てた。 その表情は珍しく不安げな気配を漂わせていた。少しシニカルさを含んだ、いつもの郷子の笑顔ではなかった。 「目視できる範囲で漕ぐ」と木下は言った。 だが10メートルも離れていると波に隠れて、他のカヤックが見えなくなる。 朝の6時に15チームほどがスタートしたのだが、すでに他のチームはまったく見えないし、我々のチームの艇でさえ、油断するとすぐに見失うほど波が高くなってきている。 シーカヤックの楽しさは、その目線の低さである。海面すれすれに自分のからだが浮かんでいるので、まるで海の上を歩いているような錯覚を覚えるほどだ。しかし今の状況では、その視線の低さが災いして、すぐに仲間の艇を見失ってしまう。 たしか木下の艇は我々より先にいるはずだ。 田村たちは後方にいるのか? それともすぐ近くに居て、気付かないだけなのか? 右手50メートルほどの距離で海岸線は続いている。 今ではその海岸線も鋭く切り立った崖になっており、そこに砕け散る波が、白い飛沫を崖の半分くらいの高さまでに跳ね上げている。 美子のパドルを漕ぐ手が止まった。 「ごめんなさい…手が…」 「大丈夫、少し休んでいいよ。良くなったらまた漕げばいい」 カヤックにしてもカヌーにしても、舵を取るのは後ろを漕ぐ者の役目だ。だから後ろが休めば、前で懸命に漕いでもカヤックは蛇行してしまうが、前が休んでも、ゆっくりながらも真っ直ぐに艇は進む。が、この荒波と潮の流れを考えれば、二人で必死に漕ぎ続けなければ、艇はなかなか進んでくれない。だが今の美子に無理をさせるのは可愛そうだ。 美子は思い出したようにパドリングを始めたかと思うと、すぐに手を休める、といった動作を繰り返した。かなり辛いのが後ろに居てもよく判る。 「今夜はゆっくり休めそうだね…飲み物もたくさん積んでいるし、ちょっとしたパーティができそうじゃない…もちろん酒はないけど」 「ええ…そうですね…田島さんはお酒をたくさん飲まれるんですか?」と美子。そう言いながらまたパドリングを始めた。 いいぞ! その調子だ。 「好きですね…こんなに長く酒を抜いたのは20年ぶりだ」 「えっ? じゃあ10代の頃からずっと?」と言って、美子はくすくす笑った。 その時だった。大きな波が上から落ちて来て、二人ともバケツの水を浴びたようになった。 オレは笑い声を上げたが、美子の調子がおかしい。 「大丈夫?」 「大変…」と言って美子は振りかえった。 「どうした…」 「スプレースカートのゴムが…ゴムが切れてしまったみたい!」 「えっ?」 オレは美子の言っている意味が咄嗟に理解できなかった。 「だから…スカートのゴムが切れて、まったく役に立たないの!」 そう美子が言った時、またもや上から波が落ちてきた。 今度は笑い声など出なかった。 美子のコックピットは海水で溢れ、その重量でカヤックのバウ側(前方)が大きく沈み込み、後ろを振り向くと完全にラダーが空中に飛び出していた。 今のこの海の荒れたコンディションで、カヤックのこのような状態は、操行不能を意味していた。 美子はビルジポンプで海水をコックピットから出そうともがいていたが、それはまったく無意味だった。スプレースカートが役立たない今、少しの波でもどんどん侵入してくる。 艇は完全にバランスを失っていた。 波がますます高くなり、容赦なく二人に海水を浴びせ掛ける。 すでに美子も水を掻き出すのを諦め、ビルジポンプをパドルに持ち替え懸命に漕いでいた。オレも同じように漕いでいたが、カヤックは別の意思を持っているように蛇行を続けた。 そして大きくうねる波頭に乗り上げたと思った瞬間、二人とも海の中に放り出された。 オレは海中でスプレースカートをカヤックから引き剥がし、素早くエスケープして、ひっくり返った艇の底を掴んで海上に顔を出した。美子は艇から3メートルほどの距離で波に揉まれ、必死の形相でこちらに向かって泳いでいる。 あの時とまったく同じだ! あの時と… オレは思わず叫んでいた。 「早く、早く掴まるんだ! メグ!」 |