メグとオレは幼馴染と言っていいほど、若いときから一緒に過ごした。
 本当はオレが高校3年の時に、彼女が同じ高校の1年生で、陸上部の後輩にあたる。
 陸上部に入部当時、彼女は長距離ランナーを希望していたが、コーチがメグの上半身の恵まれた体型を見て、短距離ランナーを目指すように指導したのだ。
 確かにコーチの指摘するとおり、メグの胸郭は大きく前に広がり、日本人離れした厚みのある胸をしていた。
 これはもちろん後から知ったことだが、その厚みとバストの大きさが、完全に比例していたわけではないが、積極的にウエイト・トレーニングを取り入れた結果、オレが卒業する頃には、洋服を着ている限り、かなりのプロモーションを保っていた。
 もちろん短距離選手でも練習時にはかなりの距離を走りこむので、足首は細く締まり、ふくらはぎがその形のいい足にきれいなアクセントを付けていた。
 その引き締まったからだに、不釣合いなほど小さくて幼い顔が乗り、そのアンバランスさが彼女の持つ大きな魅力と言えた。
 とくにオレが気に入っていたのは、笑うといたずらっ子のように鼻にたくさんの皺ができるところで、小学生の頃に交通事故に遭い、唇の下の顎に小さな傷があったが、その傷でさえ彼女の魅力の一部として映るくらい、活力に溢れた明るい顔をしていた。
 オレたちが親密になったのは、オレが彼女のウエイト・トレーニングをサポートし、いろいろと助言を与えた結果で、卒業後は互いの趣味を共有するようになった。
 オレは彼女にダイヴィングとカヌーを教え、彼女はオレにバッハの良さと、レイチェル・カーソンの素晴らしさを説いた。
 週末になると八ヶ岳の山々を歩き、彼女が作ってくれたバッハのブランデンブルグ協奏曲のテープを、山の頂上に立ちウォークマンで仲良く聞いた。
 その後オレは水中写真を撮る為に、様々な場所へと出かけたが、時にはその撮影旅行にメグも同行し、オレたちはそれらの旅を大いに楽しんだ。
 タイのコサムイ島では現地でオフロードバイクをレンタルし、島の隅々をその小さなバイクで探索した。現地の決して清潔とは言えない屋台で食べる食事にも、メグは嫌な表情をひとつも浮かべず、逆にその屋台で料理を作るおばさんと、ロクに言葉も通じないのに仲良くなるようなところがあった。
 オーストラリアのケアンズでは、ひどい安ホテルに泊まることになったが、近くの雑貨店でキャンドルをいっぱい買い込み、夜にはそれを灯して、部屋をムードある雰囲気に仕立ててくれた。
 どんな状況でも決して笑顔を忘れず、周りをも巻き込んで楽しい雰囲気に包み込んでしまう、そんな魅力がメグにはあった。
 
 大学を卒業後、メグは主に衣料関係の広告を製作するグラフィック・デザイン会社に勤め、そこでグラフィック・デザインの修行を始めたが、一年も経たない内に、有名なジーンズ・メーカーのプロジェクトを任され、オレも会ったことのないような有名なカメラマンや、コピーライターたちと一緒に仕事をするようになった。
 一度オレが、そのことについて嫉妬めいた不満をこぼしたことがある。そうするとメグは「確かに彼らは一流の仕事をするし、わたしを夕食にも誘う」と言って、少し誇らしげな表情を浮かべた。そしていつものように眉間の下の、小さな鼻の上に皺を寄せていたずらっ子のように笑って言った。
「でもわたしはゴリラのような逞しいからだと、その風貌には似合わない繊細な写真を撮る男が大好き!」
 そう言って、まっすぐにオレの目を覗き込んだ。
「ねえ…そんなことを気にしないで、早くたくさん稼いで、わたしにきれいな海をいっぱい見せて」
 
 周りの誰もが、オレたち二人が結婚すると信じていたし、メグのオフクロさんも、二人の交際を暖かく見守ってくれた。
 だがあの日…
 
 あの日、オレたちは毎年恒例のカヌーでの川下りを楽しむために、静岡県にある天竜川の支流、気田川でキャンプを張っていた。
 気田川は「本州の四万十」と呼ばれるほどその水が美しく、その川を育む自然も豊かに残されている。
 例年ならば11月の頃は、青く静かに流れる清流と、その青さとは対照的な紅葉の美しさの中で、静かに川下りを楽しめるはずだった。
 ところが、その年は夏から雨の降る日が多く、9月の台風シーズンには、強い風による被害こそ少なかったものの、各地で増水の被害が相次ぎ、この気田川も普段の倍以上に水かさを増やしていた。
「大丈夫かな…」
 メグは水かさが増え、いつもより明らかに流れが速い川を見つめながら呟く。
 オレはそれまでに、この川を少なくとも20回は下っていた。
 メグが一緒の時もあれば、オレ独りの時もあった。またボランティアで参加したキャンプでは、小学生の子供を乗せて下ったこともあった。
 その油断が災いした。
 それに普段、水不足のために数箇所でポーテージが必要な気田川で、豊富な水量を目の当たりにして、少しオレの愚かな冒険心が動いたのも事実だろう。
 オレたち二人はメグの不安を無視して、その川を下り始めた。
 そして間もなく、その行為がとんでもない無謀な行為として、強く思い知らされることになる。
 出だしは良かった。
 オレの思惑通り、水量の増した気田川はその川幅を広げ、いつもは至る所で岩が飛び出て、複雑な流れを作り出しているの川が、その日は比較的単純で、スムーズな流れとなっているかのように錯覚した。
 ところがいつものぎりぎりのパドル捌きが、するっとその早い流れに飲み込まれるように滑る。
 その不思議な感覚を3度味わった直後、カヌーを左側に寄せようとラダー・ストロークを入れたパドルに効果がなく、小さな落ち込みにまっすぐ突っ込んでしまい、前につんのめるような格好で沈してしまった。
 すごい勢いで飛ばされたわりには、二人ともしっかりとカヌーに掴っていたが、そのカヌーが間もなく流れに対して横向きになり、岩と岩の間に挟まり、動かなくなった。その状態でカヌーに掴っていると、ものすごく激しい水流に逆らっているような状態になるので、二人とも無意識のうちにカヌーを手放した。
 オレは絶えずメグの方を見ていた。
 メグもオレをしっかりと見ていた。
 メグが着ているライフベストの脇の部分を掴み、オレから離れないように気をつけていた。しかしメグの両手は下流に向かって出されており、激しい流れの中で、ベストを掴む手に、徐々に力が入らなくなってきた。
 もう限界かと思った時、川の流れの急なカーブで激しく岩に叩きつけられた。しかしそれが最後のチャンスだった。オレは左腕に感じた痛みを無視して、その手で岩の上に飛び出ている、野球で使うバットほどの太さの枝をしっかりと掴んだ。
 流れに逆らっていきなり止まったその衝撃で、危うくベストを掴んでいた右手を離しそうになったが、じりじりと手繰り寄せ、もう一度しっかりと掴みなおした。
「メグ! メグ! なんとかこっちに向きを変えて、オレの手を掴んでくれ!」
 川が激しく流れる音で、声が掻き消されそうになりながらも大声で叫んだ。
 ところがメグからはなんの反応も返ってこない。
 オレはもう一度叫ぼうとしたが、その時、メグの頭から鮮血が流れ出しているのが目に飛び込んだ。
 岩にぶつかる瞬間、メグをなんとかその衝撃から庇おうと、からだをひねったつもりでいたが、どうやら避けきれなったようだ。
 小さな頭から血がどんどん流れ、その血が川に飲み込まれて行く。
 オレはなんとかメグの表情を窺おうと、木の枝を掴んでいる手を伸ばし、川の流れの中央にからだを移動させた。
 ダメだ…
 メグは完全に意識をなくしていた。
 長い睫が濡れて完全に閉じられていた。
 小さな顎は、頭から流れる血と共に、今にも川に吸い込まれそうで、オレはなんとかもう少しメグのからだを持ち上げようとした。
 オレは泣いていた。
 あの快活な笑顔が、今では冷たく青ざめ、どこかオレの知らない世界へと旅立とうとしていた。
 かつて味わったことのない無力感に、全身が冷たく包まれていく恐怖を感じていた。



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