アラビア海のずっと南にあるソコトラ島は風が強いことで有名だ。島では石を積み上げて家を作り、島民たちは強風にじっと耐えて暮らしている。ソコトラはオマーンの南に位置するイエメンの領土だが、今オレたちがいるところから、それほど遠い距離ではない。そのソコトラ島で、もうひとつ有名なのがサメ漁で、サメを捕獲して、そのヒレを中国に輸出している。アジアでしか食されていない、中国料理の名物である「フカヒレ」の材料が、遠くアラブの人々によって供給されていることを考えれば、いろいろなところで世界が繋がっているということを認識させられる。 そう世界は繋がっているのだ。 普段ならばポジティヴにそのことを受け止めることができるのだが、今の我々のおかれている状況では、それがそのまま恐怖に繋がった。 ここからそう遠くないところで、サメ漁が盛んだということは、その海に漂うことの恐怖を嫌でも思い知らされる。 もちろんダイヴィング中にサメに出会うことは頻繁にあることだ。しかしサメというのは、海中で潜っているものに危害を加えることは少ない。どちらかといえば、海面でじたばたしている、死にかけている弱った魚などを狙うことが多いのだ。 よくサーファーがサメに襲われる、というニュースを聞くが、それもサメの習性を思えば納得のいくことである。 今まさにサメがアタックをかけ易い状態にいる。しかもカヤックからの転落の際になにかにぶつけたのだろう、落馬の時に負った美子の腕の傷から、また再び夥しい血が流れ出ていた。 「大丈夫か?」 オレは流れ出る血を見ながら美子に尋ねる。 美子はなにも言わずに弱々しく頷いた。 大丈夫なわけはない。からだは衰弱しているし、腕には深い傷を負っている。そしてカヤックに捕まって荒れた海を漂い、その海にはサメがいるのだ。 もっとも美子にはソコトラ島の話をしたわけじゃないので、彼女にはサメの恐怖はないのかもしれない。 それに悪い材料はまだある。 チンした瞬間から、少しづつではあるが、確実に、波が砕け散る切り立った絶壁に、カヤックが引き寄せられているのだ。 このまま潮の流れに任せていると、カヤックごと岩に叩きつけられるのが目に見えている。 日本語でなんて言ったっけ? 慨視観念だっけ? 「デジャブ」と言えば簡単なのに、時として日本語はわざと難解な言葉で表現される。 だが、どうしてこんなに危険が迫っているときに、くだらない表現方法にこだわっているのだろう。メグとのことは、今は頭から締め出すべきだ。 波を観察した。 中学生の時にスティーブ・マックイン主演の映画「パピヨン」を観た。その映画でマックイン演じるパピヨンという囚人は、脱出不可能とされている断崖絶壁の孤島から海に飛び込んで逃げるのだが、彼はその絶壁に打ち寄せる波に周期があることを発見する。つまり何回かに一回は、波が大きく沖に向かって流れ出し、その波にうまく乗って、岩に叩きつけられずに島を脱出するのだ。 あれは事実なのか? 物語自体は真実で、島を脱出した実在の人物が書いた物語を元に映画が作られたと聞いた。 しかし物語は真実でも、波に周期があるというのは本当のエピソードなのか? 今では調べようがないし、調べる時間もなかった。黒々とした恐ろしい絶壁がどんどん近づいてくる。 周期などはまったく数えることができなかったが、オレたちが引き寄せられている波の30メートルほど右側に、そのさらに右側に位置する、比較的、波の穏やかな入り江に向かって、一度岩に砕けた波が吐き出されていた。 あれに賭けるしかない。 ぎりぎりまで岩に向かって流され、波が引いた瞬間に右側に向かって全力で泳ぐ。 オレはなんとかなりそうだ。が、美子は? 「美子さん・・・オレの言うことを良く聞いてくれ・・・」 美子が憔悴しきった顔で、オレを見上げた。 「一回しかチャンスがない。オレが合図をしたら、全力でオレの後について泳いでくれ」 美子は首を僅かに振った。 「無理・・・私こんな海で泳げない・・・」 「ダメだ! 諦めちゃ・・・泳ぐんだ。それしか助かる方法がない」 美子はまた下を向いて黙っていた。そしてそのまま呟いた。 「わかった・・・このカヤックは捨てるの?」 「あー・・・そう・・・カヤックもパドルもすべて捨てる。オレが合図をかける。そしたらカヤックを放し、右に向かって全力で泳ぐ・・・いいね」 「OK・・・やってみる」 よし・・・しかし本当にできるのか? だができるとかできないの問題ではなく、やらなければならないのだ。 急に崖に向かって引き寄せられるスピードが速くなった。今ではカヤックはまるでサーフボードのように波に乗っている。まるで遊園地かなにかのアトラクションのようだ。 恐怖心が首まで湧いてきて、からだ中から力が抜けていくような気がした。こんなに全身グショ濡れになりながら、喉の奥がくっつきそうなくらいカラカラに乾いている。 ほとんど無いに等しい唾を飲み込んだ。 岩がどんどん近づいてくる。絶壁の岩の小さな溝さえ識別できるくらいに近づいている。 その時だった。 右手に押し出されるように一本の流木が流れてきた。 今だ! 「行こう!」 オレはカヤックを放し、必死で流木をつかもうとした。必死に泳ぎすぎて危うく流木に頭をぶつけそうになったが、なんとかその流木の端を掴み、そのまま両手で抱きしめるようなカッコになった。 振り返ると美子がこっちに向かって懸命に泳いでいる。その向こうでカヤックが岩に激突して、その約半分が上に向かって飛び散った。 オレは恐ろしくて目を逸らした。 「早く! これに!」 片手を離し、美子の手を掴んだ。 「これに捕まって! あっちに向かって泳ごう!」 美子は返事をしなかった。ただ片手で流木を掴み、もう一方の手でオレの上腕を強く掴んでいた。 流木は絶壁の右手に押し出されるはずだった。しかし人間二人の重さが加わったせいなのか、急に失速してしまって、また逆戻りしようとする。 「もっと蹴って! 水を蹴るんだ!」 「ダメ! もう力が出ない!」 「バカ! 諦めるんじゃない! 今度こそ・・・今度こそ・・・」 オレは力いっぱい水を蹴った。 上腕に食い込んでいた美子の指の力が弱くなった。 「離すんじゃない! 離すな! 蹴って! 蹴って!」 少しづつだが、絶壁から離れていった。そして入り江の方向に向かって僅かながら流れる、潮に乗っているような気がした。 ひたすら水を蹴りつづけた。 自分の声が遠くから聞こえてくるような気がした。 現実が遠くになり、未来が交錯した。その未来は自分の希望なのか、それとも今が未来で、過去を振り返っているのか、まったく区別がつかなかった。 水を蹴る足になにかがぶつかって、それでも遠くから自分の声が聞こえていた。 「蹴って! 諦めるな! 死ぬものか!」 時間の観念がまったくなくなり、温かい波にもまれて、南国の海を漂っているような心地よい感覚に包まれた。 不思議と幸せな気分を味わいながら、深い闇に吸い込まれていった。 |