なにをそんなに怒っているんだ?
 メグがその小さな顔に怒りの表情を浮かべていた。
 オレはメグの怒った顔が好きだった。太い眉とアーモンドのような形をした黒目がちの目との間隔が狭くなり、ショートカットのヘア・スタイルのせいか、少し少年のような顔つきになる。
「いつまでこだわっているの? 私はまったく気にしていないのに・・・男らしくないよ!」
「メグ・・・オレは・・・オレは・・・」
 なにか言おうとするのだが、それが言葉にならない。
 そこで言うべきことが書いてあるメモを探した。するとメモはすぐに見つかったが、その字が読めない。日本語なのか英語なのか、それともまったく理解できない言語なのか・・・
 メモを読めないでイライラしていると、急に寒気がして、メグが悲しい表情を浮かべた。
「メグ! オレは・・・オレは・・・」
 
「起きて! お願い・・・起きて!」
 目の前に美子の顔があった。
 ここはいったいどこなんだ? 
「大丈夫? わたしたち…助かったみたい…」
 そうだ…カヤックごと危うく絶壁にぶつかりそうになり、そのカヤックを捨ててここまで泳ぎ着いたのだ。
 オレの着ている濡れた化繊のシャツに、濃いピンク色した液体がこぼれた。その液体の元を目で追うと、美子の腕に巻かれた包帯が血で滲んでいた。
「美子さんの…腕の傷はどうですか…」
 美子は腕の傷の存在を忘れていたように、腕を見つめ、それから僅かに笑顔を浮かべた。
「人間の苦しみって、本当に相対的なものだと思う…だってさっきまで生きるか、死ぬか、という状況の中にいたから、傷のことはすっかり忘れていた…それに…今だって、危機を脱出できた嬉しさで、痛みが気にならない…きっとしばらくすると、また痛みだすんでしょうね」
 オレはゆっくりと立ち上がり、腕を廻したり、腰をひねったりしてみた。
 幸いどこも痛めてはないようだ。
 あらためて周りを見回した。
 オレたちが上陸したのは、海に突き出た岬と陸地が繋がるくびれたところで、どうやら少し山に登れば、岬の反対側に出ることができそうだった。そこからの地形はまったく判らないが、山の1番高いところから見下ろせば、だいたいの状況は把握できるだろう。
「どう? 歩ける」
「えー…両足がしっかり土を踏んでさえいれば、わたしは大丈夫!」
 美子はにっこりと微笑むと勢いよく立ち上がった。
 カヤックと共にすべて捨ててしまったので、身軽は身軽なのだが、ここ数日はずっと15キロくらいのザックを背負っていたので、なんだか心許ない気がした。
 20分ほど急な丘を登っていくと、岬の反対側を見下ろすことのできる鞍部までたどり着いた。そこからは砂浜の海岸線がほぼまっすぐ続いており、その地形から判断すると、オレたちは1番間の悪いところでチンしてしまったようだ。
 こういうものかもしれない。以前、ある有名な登山家と話をする機会があったが、彼が厳冬期の谷川岳で遭難し、3日間、ホワイトアウトの嵐の中でビバーグすることになった。ようやく嵐が収まって、そこから下山し始めると、なんと30分もしないうちにスキー場のゲレンデの、リフトの降車場に出たという。そこではカラフルなスキー・ウエアを着た若い男女が楽しそうに滑っており、自分はそこからほんの少し登ったところで死の恐怖と直面していたのか…となんだかとても拍子抜けした思いをしたそうだ。先ほどまでの緊迫した状態を思い出し、オレは大きくため息をついた。
「ねえ…あそこ…」
 美子が、我々が見下ろしていた真下の浜を指差した。
「ほら…あそこ! 見えますか? ほら人が…」
 オレはその方向を見てニヤリとした。
 我々と同じ服装をした3人の男が立っていた。
 
「無事だったんですね…」
 田村が相好を崩して駆け寄ってきた。
「まあ…無事と言えば無事だけど…すべてをなくしたよ」
 オレは今しがた起こったことを3人に話した。
 田村たちは少しだけオレたちの艇より先行していて、やはりこれ以上、カヤックを続けるのは危険だと判断し、なんとかその入り江にたどり着いたと言った。すでに木下もそこに着岸しており、オレたちの安否を気遣っていたところだと話した。
「まあ…いずれにしても、これで我がチームは失格というわけだな…」
 木下は手ぶらのオレたち二人を非難するような目つきで一瞥し、続けた。
「どうやら二人は艇をなくしてしまったみたいだし、万が一、海上が静かになってもこれ以上、レースの続行は不可能だしな…」
 あー…この男は人を思いやる気持ちが微塵もないのか…たしかに偶然にも、オレたちはこうして無事再会したが、先ほどまでの状況を考えると、それは奇跡に等しい展開なのだ。
「ごめんなさい…わたしの怪我のために、思い通りのパドリングができなくて…」
 美子が消え入りそうな声で釈明する。
「いや、美子さんは十分にやったよ。あの状況ではあれが精一杯だった…気にすることはない」
「ふーん…麗しい友情だな…」
 木下がまた例のサメのような表情で冷たく言い放つ。
 オレはもう我慢できなかった。
「たしかに艇をなくしたのはオレたちのフォルトだ。だが、チームリーダーとして、あんたもメンバーの身を案ずる配慮が、もう少しはあってもいいんじゃないのか」
 オレは自分の声が高くなるのを感じたがそのまま続けた。
「ましてや彼女は自分の大切なパートナーだろう・・・少しはいたわってやったらどうなんだ!」
「ふん・・・もっともなことを言うじゃないか! そういう自分はどうなんだ? その大切なパートナーやらを護れなかっただろう!」
「なんだと!」
 オレは木下に飛び掛り、そのまま二人して砂浜を転げた。
「やめてください!」
 田村と堀内は同時に止めにはいる。
「やめてください!」と田村は真剣な表情で繰り返した。
「我々チームがこれで失格だとしても、次のチェックポイントは50キロ先にあるから、そこまでは歩いていかなければならない。歩いてそこまで行けるのかどうかも判らないし、もうすぐ陽が落ちる。レギレーションによれば、このあたりの海岸はあまり治安がよくないらしい。だから、ボクらは一刻も早くここを出発しなければならないんです」
 オレは木下から離れ、彼らに背をむけた。怒りはまったく収まっていなかったが、田村の言うことはもっともだし、その怒りを木下にぶつけても、仕方のないことだった。
「よーし…じゃあ出発するぞ!」
 木下は全身の砂を払い落としながら、憮然とした表情で告げた。そしてオレに向かって厳しい口調で言った。
「オレは事実を言ったまでだ」
 オレはそれには応えなかった。
 もうすでに夕陽は半分ほど水平線に入っていた。また再び寒さを感じたが、もちろん着るものなんて持っていなかった。
 美子の方を見ると、小刻みにからだを震わせていた。
「ヒロ…なにか着るものがあれば美子さんに貸してあげてくれないか…」
「あー…はい…」と言って田村は美子の方を見て、歩を止めてザックを開いた。そしてザックからフリースのベストを取り出し、小走りで美子に追いつき、それを差し出した。
 美子は小さな声で田村に礼を言い、オレの方を見てなにか言いかけた。
 オレは美子に小さく頷いた。
 美子はそれを見て、そのベストを着て、再び歩き始めた。
 濃紺の夜が僅かに残る夕陽の残像を侵食し、我々の歩く海岸を包み込もうとしていた。
 今度は大丈夫だった。
 美子の足取りはしっかりとしていたし、木下がなんと言おうとオレたちは助かったのだ。
 数日前、郷子がオレの頭に触れたときと同様に、ほんの少しだけ苦しみがからだから抜けていくような感じがした。



Copyright(c) 2001 Tokichi Kimura All Rights Reserved.

Designed by Fuji media Farm corp.