それからの展開は非常に目まぐるしいものだった。
 我々は徒歩でカヤックのゴールであるティウィの街に到着したのだが、そのゴール地点がとても慌しい雰囲気に包まれている。
「あー…良かった! みんな無事だったの…」
 我々を見つけて、郷子が走り寄って来た。
「実は…今朝の時点で、もうレースは終了になったの…」
「えっ? レースが終了…」
 郷子の言っている意味が、とっさに理解できなかった。
 しかしその後、きちんとした説明を受け、全体像がつかめてきた。
 本来ならばこのシーカヤックの後に、もう一度山岳コースがあって、その競技をもって今年度のレイド・ゴロワーズにおけるすべての競技が終了するはずであった。
 ところがシーカヤックのステージで遭難したのは我々日本チームだけではなかったのだ。
 同じ日にスタートした25チームの、ほとんどの艇が我々と同じような状況に陥り、今現在も遭難したまま発見されていないチームもあると云う。各チームが緊急の場合に備えて衛星ビーコンを所持しているが、それも艇と一緒に流されれば役には立たない。
 このレースでは緊急の際に、レスキュウ用のヘリが2機、待機しているが、その2機が現在もコース上を飛行して、残りのチームの発見に全力を尽くしているらしい。
 主催者のジェラール・フジール氏は、これ以上、レース続行は不可能と判断し、無事、シーカヤックのステージを終えたチームのみ、山岳コースへのレース続行を許可し、それ以降のチームにはレース完走は認めるが、レースにおける順位を与えないことで、このレースの終了を宣言したのである。
「つい1時間ほど前に、レスキュウ用のヘリが、日本チームが海岸に沿って歩いているのを発見し、この本部に連絡してきたの…それでみんなの無事は確認していたのだけれど…実際にみんなの姿を見るまでは落ち着かなくて…」
 郷子はそう言いながら、何度もため息をついた。
 そうか…レースは終わったのか…
 なんだかあっけない幕切れだったが、オレとしては自分の役割は十分に果たしたつもりだった。
 しかし…カヤックと共に流されてしまったニコノスのカメラの中には、カヤックのステージで撮った写真が数枚入ったままだ。あの写真がなければ、レースの全貌を伝えることはできない。
 さて内坂にはなんと言い訳をしたらいいものか…
 
 その日の夕刻には上位15チームのすべてが山岳コースも終えて、実質上、レースは完全に終了した。
 今年度のレイド・ゴロワーズの覇者は、フランスのテロ対策チームである「ヌーヴェル・カレドニ」で、どうやら洞窟で撮影したときのまま、最後まで逃げ切ったようである。
 海上を彷徨っていた残りのチームもすべてレスキュウされたとの連絡が入ってきており、すべてのチーム、及び大会関係者は、その日のうちにオマーンの首都であるマスカットに移動し、あとは閉会式を残すのみとなった。
 
「ホテル・アル・ブスタン」に戻って来た時は、そのモスク風の建築物が、このオマーンにやって来た最初の夜には、あんなにエキゾチックに感じられたのだが、あまりにも長い間、オマーンの荒野を彷徨っていたせいで、そのホテルでさえ懐かしさがこみ上げてきた。
 部屋に入って早速バスルームに駆け込んだ。
 もちろんレースがスタートして以来、一度もシャワーを浴びていない。からだのあちこちが痒く、一刻も早くシャワーを浴びたかった。
 驚いたことに、最初はいくらシャンプーをつけても泡が立たない。3度目のシャンプーで、ようやくいつものように白い泡が立ち始めた。
「ふー…よっぽど汚れていたんだろうな…」
 結局頭を5回も洗い、3回からだを洗った後で、シャワーから出て、裸でバスルームの鏡の前に立った。
 腹の周り肉が痩せ落ち、おそらく5キロは体重が落ちたようである。それに手足に無数の小さな傷が目立つ。
 レース中はこの小さな傷にハエがたかり、なかなか治らなかったが、シャワーを浴びた今、すでに傷のいくつかは治りかけているようだ。
「まったく…人間の治癒力はたいしたものだな」
 そう呟くと、バスルームから出て冷蔵庫からクラブソーダを取り出し、スルミノフのミニチュアボトルに入っていたウォッカを、氷の入ったグラスに注ぎ、それをソーダで割った。
 ひとしきりソーダ水の泡立ちが落ち着くのを待って、そいつを一気に飲み干した。
 炭酸の喉越しがとても心地よく、水を求めて砂漠を歩いた夜を思い出し、ニヤリと笑顔を浮かべた。
 しばらくすると、すごい速さでウォッカの酔いが全身を包み込んだ。
 バスタオルを腰に巻いたままベッドに倒れこみ、そのまま深い眠りに落ちていった。
 
 こんなに熟睡したのは何日ぶりだろう。いつもは明け方には眠りが浅いのだが、トイレにも立たずに眠っていたようだ。
 ベッドサイドの時計を見た。
 7時半…12時間以上も眠っていたようだ。
 それに猛烈な空腹を感じる。無理もない、昨夜は夕食も取らずに眠ってしまったのだ。そういえばレースの閉会式にさえ参加していない。
 電話が鳴った。
「田島さん? 昨夜はどうしたの? 閉会式の会場にも姿を見せないで…」
 郷子だった。
 電話から聞こえてくる声が、あまりにも心地よかったので、しばらく黙って聞いていた。
「もしもし? ねえ聞こえています? 田島さん…」
「大丈夫! 聞こえているよ。おはよう! オレは今この電話が食えるほどハラが減っているんだけど、もし良ければ一緒に朝食を食わないか?」
 電話の向こうで郷子がくすくすと笑った。
 その笑顔を一刻も早く見たかった。
「じゃあ8時にホテルの一階のダイニングでいい?」
 郷子が明るい声で応える。
「OK! じゃああとで…」
 電話を切った。
 バスルームに入り、念入りに髭を剃った。そしてホテル備え付けのアフター・シェーブローションをたっぷりと顔にすり込み、シャツに袖を通した。
 まるで新しく生き返ったような気分だった。
 
 ダイニングに入って行くと、すでに郷子がテーブルについており、お茶を飲んでいた。
 オレの姿を認めると、輝くような笑顔で手を振った。
「ハイ! これが昨日までに上がってきたポジ。あと2本ほどはまだ仕上がっていないけど、明日の午後には仕上がると思う」
 テーブルに着くなり、郷子は現像済みのポジフィルムが入った袋をオレの前に置いた。
 袋を開けようとした。
「ねえ、待って! 電話を食べそうなくらいオナカが空いているんでしょ! まずは朝食にしましょう」
 郷子の言うとおりである。
 ウエイターを呼んで朝食を注文した。
 
 大盛りのドンブリいっぱいくらいのミューズリー、大ぶりのベーグルが3つ、ほうれん草とマッシュルームが入ったオムレツ、ヨーグルト、それにミントティーを3杯飲んで朝食を終え、ポジのチェックを始めた。
 もっとも気に掛かったのは、苦労して撮影した例の洞窟の写真で、そのポジをダイニングの明るいほうをかざして見た。
 計算通りの露出と構図で撮れており、深い満足感を覚えた。
「実はその写真のことなんだけど…」
 郷子が少し暗い表情になって言った。
「田島さんも知っていると思うけど、今回の撮影済みの写真はすべて主催者側の指定したラボで現像することになっているのだけれど、それを昨日、閉会式後に受け取りに行ったのね…」
 郷子は一息ついてお茶を飲み、それから周りを見回した後にテーブルから少し身を乗り出し、声のトーンを落として続けた。
「そのラボで田島さんのポジを受け取り、確認の為にライティングボードの上にポジを並べて、ざっと確認していたら…ちょうどそこに居たフランス人のカメラマンがね…えーっと、確か名前はフィリップ・パティシエって言ってたわ。そのフィリップが、今ちょうど田島さんが見ている洞窟のポジを見て、どうしても田島さんと話がしたいって言っているのよ」
 郷子が話を終えてから数秒、彼女を見つめ、それから尋ねた。
「そのこと自体になにか問題があるとは思わないけど…なにか気にかかるのか?」
「うーん…べつにわたしもなにが…と言うわけじゃないけど、そのフィリップの顔つきがなんとなく気に入らなくて…」
 オレは相好を崩した。
「君を誘ったのか?」
「ううん、そうじゃなくて…」
 郷子も笑った。
「とりあえずこちらから連絡をするって言ったけど…彼もこのアル・ブスタンに宿泊しているみたいで、部屋番号を聞いてあるわ」
「OK! じゃああとで連絡してみよう。だけど…もしよければ一緒に会ってくれるか? オレはフランス語はさっぱりでね…」
「もちろん!」
 郷子は明るく答えた。
「ところで…昨夜、美子さんからカヤックの時のことを聞いたわ」
 郷子が真剣な表情になった。
 その時のことを思い出し、少し胃の下あたりがこわばった。
「美子さん…田島さんにとっても感謝していた…大袈裟な意味じゃなくて、命の恩人だって…」
 そう言うと、郷子は今までに見せたどんな表情よりも優しい顔つきになり、静かに呟いた。
「今度は大丈夫だったね…」
 オレは黙っていた。
 一瞬、メグの笑顔がよぎった。
 そして春の海に揺られているような、暖かい温もりがからだを充たした。



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