フィリップ・パティシエは身長170センチ前後の痩せた男で、年齢は30歳を過ぎたばかりだろうか。 オレにはどんな人種であろうと外国人の年齢がまったく推測がつかない。たいていは思っている年齢より、みんな若いことが多いのだが、今、目の前にいるフィリップにしたって、砂色の髪が頭頂部まで禿げ上がり、同じ色した濃い口髭を蓄え、一見、オレより随分と年上に見える。が、ピンク色したつややかな頬や、すみれ色の瞳を見る限り、そんなに年齢はいっていないだろう。ただ猛禽類を思わせる鉤鼻が、狡猾な印象を与えていた。 彼は部屋に入ってくるとすぐに自分はフリーのカメラマンだと自己紹介をし、オレと郷子にとりあえず自分の撮ったポジを見てほしいと言った。 我々は撮影済みの36枚撮りのポジを20本ほど、やはり彼が持参した小型のライティング・ビューアーの上に載せて、ざっと目を通した。 そのポジにはレース全体がまんべんなく写されており、中には参加選手のかなりリアルな表情に肉薄した、素晴らしい作品も何点かあった。 我々がライティング・ビューアーを覗き込んでいる間、フィリップは窓際の椅子に浅く腰掛け、両刻みのタバコ(煙の匂いから察するに「ジタン」かなにかだろう)を吸い、我々を交互に見ていた。 アメリカ人に比べ、ヨーロッパの人間にはいまだにヘビー・スモーカーが多い。まあフランス人やイタリア人から、肩をすくめるジェスチャーとタバコを取り上げれば、彼らはたちまち間を持て余すに違いないが、嫌煙家のオレには迷惑なことである。 ポジ・チェックの際のタバコは特に気になるが、彼もそのことを知っていて、窓際にいるのだろう。 我々が一通りポジのチェックを終えると、フィリップは短くなったタバコを灰皿でもみ消し、口髭を右手の親指と人差し指で撫でながら我々に近づいてきた。 どうやらこれはこの男の癖らしい。 ライティング・ビューアーが置いてあるテーブルの反対側に座り、郷子に向かってフランス語で話し始めた。 彼女は何度か頷き、オレに向かって言った。 「同じカメラマンとして、自分の写真に対する意見を聞かせてほしい、って」 もう一度ポジの束を取り上げ、フィリップを見た。彼は大きく頷いた。 そのポジをデスクの上に戻し、腕組をした。 「レースの全体的な流れをよく撮っているし、選手達の表情もうまく捉えている。それに逆光を生かしたオマーンの風景もきれいだと思う」 オレは郷子とフィリップを交互に見ながら言った。 同じカメラを生業としている者に、もう少しは気の利いたことを言いたいのだが、通訳してもらいながら話をすると、どうも文章を棒読みしているような妙な気分になる。 郷子がフィリップにゆっくりとしたフランス語で訳すと、フィリップは例の髭を撫でる癖を繰り返しながら、何度も頷いた。 郷子は英語をネイティヴ・ラングリッジのように完璧に話すが、フランス語のほうは少しスローモーな話し方になる。しかしそのゆっくりとしたアクセントが、濁音の多いフランス語のアクセントと妙にマッチし、心地よく耳に響く。 次にフィリップが早口でなにかを言い、郷子はそれについて質問をしているようだ。何度か同じような単語が飛び出し、それについて確認している。 だが、どうやらあまりいい話ではなさそうだ。珍しく郷子の表情が険しくなっている。 「どうしたの…なにか問題でも?」 「うーん…」と郷子は口ごもった。それからフィリップを一瞥し、オレのほうをまっすぐに見て言った。 「どうやら彼は写真のトレードを申し出ているみたい…彼ももちろん、日本チームが海で遭難した件を知っているのね。それでもしかして、田島さんの方で足りない写真があるんじゃないかって…もちろん当初に木下さんが言っていたように、主催者側からもオフィシャルの写真を配信されるのだけれど、それだけでは十分ではないと思う、って言っているのよ」 たしかにフィリップの言うとおりだった。 実は今日の午後、主催者側がすべての国の報道関係者に配信する、オフィシャルのカメラマンによるポジのチェックに行った。 そのオフィシャルのポジには、オマーンの雄大な大自然をヘリから空撮したものや、かなり人手と手間を使って撮影困難な場所で撮ったと思われるもの、それに1位チームと2位のチームの苛烈なトップ争いの模様を、様々な角度から捉えていたものなどがあった。 そこで希望するポジのナンバーと、使用目的、その媒体名をきちんと申し込めば、そのポジのコピー、つまりデュープを無料で借り受けることができる。もちろん主催者側が指定するロゴとクレジットは掲載しなければならない。 そのことは内坂も了承してくれるだろう。 しかしそれでも写真が足りなかった。 だが今、目の前にある写真の何点かは、帰ってからページを構成する上で、不可欠なものも多数あった。特に、我々が遭難したシーカヤックのカテゴリーと、その後に続く山岳コースの写真は、当然のことながらオレの手元にまったくないのだ。 今日も朝からそのことで、日本にいる内坂になんと説明しようかと、頭を痛めていたところである。 大きくため息をつき、彼の条件を聞いてみることにした。極力他人の撮った写真を使用したくない。それに自分の写真を切り売りするのも、普段なら決してやらないだろう。 かつてカンボジアの激しい戦火の下で貴重な報道写真を撮り、そのまま行方不明になってしまった偉大なる報道写真家、一ノ瀬泰三氏は、彼の死後、発刊されたご両親との書簡集の中で、命がけで撮影した自分の写真を、大きな通信社に切り売りすることの無念さを、切々と語っていたが、カメラを職業とするもの、どんなカテゴリーであろうと、己の写真は手放したくないものである。 郷子とフィリップは、最初、静かに会話を続けていたが、そのうち、郷子の表情がますます厳しくなり、最後の方ははっきりと、なにかを拒否する会話となるのが判った。 「田島さん、断りましょう! 彼はまったく無理な申し入れをしている」 「ちょっと待ってくれ…詳しく聞かせてくれないか」 「彼は例の洞窟の写真を欲しがっているの。しかもその条件が、田島さんのクレジットは入れないで、自分の写真として使用したい、ってことなの! まったく話にならない…」 「で、彼がこちらに出す写真は?」 「洞窟の写真を1点貰えれば、こちらの好きな写真を5点提供するって…もちろん自分の名前のクレジットも載せなくていいって言っているけど…でもダメよ! あの写真は…」 郷子はそこで言葉を切り、訴えるような表情でオレを見つめた。 郷子がなにを言いたいのか分かったが、オレにも果たさなくてはならない仕事があった。 「わかったその条件を飲もう、と彼に伝えてくれ」 「待って! それはダメ! 絶対にダメ! あの写真は田島さんが…」そこまで言うと、郷子は懇願するような口調になった。 「ねえ、お願い、わたしも分かっているつもり…あの写真を撮るために田島さんがどんな思いをしたかって…それに、それにいつも父の仕事を見ていたから分かるのよ、自分の撮った写真がどれほど大切かってことが…だから、ねえ、お願い! この話は断って…」 最後は涙声になった。 「郷子さん…オレの話を聞いてくれ…」 オレはまっすぐに郷子の目を覗き込んだ。 「とりあえず、すぐに返事をするから一旦、彼に部屋に戻っていてほしいと伝えてくれ」 郷子が伝えた。 フィリップはいい返事を待っていると言い残して部屋を出て行った。しばらくそれを目で追っていたが、再び郷子の目を見つめ、それからもう一度繰り返した。 「オレの話を聞いてくれ…」 彼女は小さく頷いた。 「今回、オレはこのオマーンにやって来たことで、多くの貴重なモノを手に入れた」 静まり返った部屋の中で、フィリップの残したタバコの匂いが僅かに漂っていた。西陽が窓から差し込み、郷子の顔の右半分を照らしている。少し室温が高く感じられ、背中のあたりでスーと汗が流れ落ちた。 「このレースに参加して、自分が極限状態の中でも、まだまだ頑張れる、という自信が持てた。実は例の事件があって以来、オレはそういう状況から自分をずっと避けていた。どこかでいつも罪悪感と無力感が付きまとっていた。ところがあの写真を撮った時もそうだし、カヤックで遭難した時だって、オレは自分で信じられないほど、最後まで諦めないで頑張ることができた」 そこまで言って、オレは唾を飲み込んだ。口の中が渇いていた。今度はこめかみのあたりに汗が浮かぶのが判った。 陽焼けした郷子の顔に西陽がますます強くあたり、頬のあたりの産毛を金色に輝かせた。 「このタイミングでこんなことを言うのも可笑しいことだし、自分がTPOをわきまえていないことも分かっている。だけど…オレはこのレースの間、辛い時に、ずっと君のことを考えていた…」 郷子の瞳の黒い部分が、少し大きく開かれたような気がした。 「今までは辛い時に、あの事件のことが必ず頭をよぎって、ますます辛い思いにはまり込んでいたんだ…だが…今回は違った。何度も、何度も、君の笑顔を思い出し、最後まで諦めないで頑張れた。そして…」郷子がゆっくり瞬きをした。その目が潤み、黒い睫の下で揺れた。 「そして・・・そういう思いをして撮った写真を、君はこんなにも大切に思ってくれる」 郷子は俯いた。 肩が小刻みに震えていた。 「今のオレにはその気持ちだけで十分なんだよ…」 郷子がそっと手を差し出し、オレの手を握った。 握る力があまりにも強かったので、オレは些か驚いた。 そしてその握った手の上に、熱い涙が流れて落ちた。 その涙の雫はまるで乾いた熱砂の砂漠の、一滴のオアシスの水ように、オレの心の中でなにかを優しく融かした。 |