「田島さん…気をつけて帰ってください。一緒にレースに出ることができて良かったです」
 田村は力強くオレの手を握った。
 オマーンのマスカット空港は閑散としていた。
 西欧のどこかのキャピタリズムの国際空港であれば、いつも免税店や土産物を扱う店で買い物をする人々でごった返しているが、禁欲を是とするイスラムの教えを忠実に守っているのか、マスカットの空港ではそのような光景は見られない。
「完走できなかったのが残念だが…」
 田村と握手をしていた手で、機内持ち込み用の手荷物であるグレゴリーのデイバッグを持ち上げ、オレは小さく笑顔で応えた。
「たしかにそうですが、今回の気象条件や、その他、もろもろの条件を考慮すれば、その中では十二分にやったという気がします。日本ではこのレースの情報がまだまだ乏しいし、レースのレギュレーションはすべてフランス語だったし、我々日本人にとってはハンディが大きいですよ。それに同じように枠外完走だったアメリカ人チームなんて、最後は3人しか残っていなかったじゃないですか! それに引替え、我々は美子さんがあんな状態だったにも関わらず、最後まで5人全員で頑張ったことだし…」
 今回のオマーンにおけるレースでは、シーカヤックでステージを終えたチームは、一応、枠外完走という扱いになった。上位15チームを除いて、25チームほどが枠外完走の対象となったが、今、田村が指摘したように、我々、日本人チームと同様に、今回の大会が初参加であるアメリカ・チームも、枠外で完走となった。しかしシーカヤック以前のステージで、アメリカ・チームのメンバー二人がリタイヤしていたので、我々よりは分が悪いことは確かだ。
「まあ完走とか枠外とか、もうそんなこともどうでもいいことですけどね…ボクは今までいろいろなレースに参加して、いつもタイムや順位、それにきちっとした完走を目指していました。でも今回終わってみて…」
 そこで田村は言葉をいったん切り、まるでオマーンの荒野を見ているような遠い眼差しで、空港の外を見つめた。
「このオマーンの大地と一体になれたって言うのかなあ…いや、ここの大きな自然と格闘した、と言ったほうが相応しいかもしれないけど、なにしろ自分が持っているだけの力や技術もみんな出し切ったし、ボクはとても満足しています」
 レース中、満足に食事も取ることができなかったせいで、田村も少し痩せたようだ。その引き締まった顔が日焼けのせいでますます精悍な顔つきになり、初めて会ったときより逞しく見える。
 厳しい自然はいつも男の顔に、その厳しさを乗り越えた強さの皺を刻んでいく。優しさと強さと、幾多の経験が蓄積され、その想いが胸の中で沈殿されて、いい男の表情を創り上げていく。
 オレは様々な取材を通して、ファインダーの中でそういう男達を見てきた。そしてそういう男たちにはひとつの共通点がある。どんなに深い皺に埋もれた瞳であろうとも、その中には荒野を渡るような風が吹いているのだ。
「そろそろ子どもにも会いたいのじゃないのか?」
 それを聞くと田村は大きく相好を崩した。
「そうですね…今回はろくに電話もできなかったし…女房も随分と心配していると思います。でもボクたちも明後日には帰国しますから…」
 愛する家族が待っているのであれば、帰国はさぞ待ち遠しいことだろう。
 すでに郷子は昨日、このオマーンを経っていた。
 パリに住む友人に会って帰ると言っていたので、日本到着はオレより遅く二日後になる。彼女が入稿しなければならない原稿はすでに電子メイルを使って送信済みなので、その校正が出るまでに帰国すればいいのだ。どっちみちオレが日本に戻ってから、内坂と写真を選ばなければならないので、あと1週間近くは校正も出ないだろう。
 それに郷子と日本で、もう一度会う約束をしている訳ではない。
 オレたちが交わした約束はひとつだけだ。それは今回のオレの撮った写真を、フィリップに渡したことを誰にも口外するな、ということだけである。
 オレはバッグを肩にかけ「それじゃあ、また」と言って、田村の肩をたたいた。
「日本に帰ったら、また連絡します。うまいオデンを食わせる店を知っているので、一緒に行きましょう!」
「あー、必ず電話をくれよ!」
 オレはそう言ってゲートに向かって歩き始めた。
 入国の時に比較して、出国の手続きは簡単なようである。これはイスラム圏も他の国も変わらない。いや出入国カードを提出する、という作業がある我が日本が、一番手間がかかるかもしれない。
「田島さん!」と後ろから田村が呼んだ。
 振り返ると田村が手を振りながら叫んだ。
「木下さん、あれから結構反省していましたよ!」
 オレは黙っていた。 
「あんな風に見えるけど、根は悪い人じゃないから、許してあげてください!」
 判った、というかわりに小さく頷いて、ゲートでセキュリティ・チェックを受ける。
 検査が終わってベルトに乗せられて出てきたバックを受け取り、出発ラウンジに向かおうとしてゲートの外を見たら、まだ田村が手を振っていた。
 どんな別れでも、空港でのそれは哀愁を誘う。
 オレは足早に出発ラウンジへと歩いていった。
 
 今日はクリスマスイヴ。
 一年中で、恋人たちがもっとも心待ちにする日だろう。愛を告白するバレンタインデイも、熱い恋人たちには待ち遠しいかもしれないが、クリスマスのイルミネーションがロマンチックな気持ちをより深いものに仕上げる。
 だが今のオレにはロマンチックなクリスマスイヴは、まったく縁がなかった。
 二日酔いの頭をすっきり覚ますために、バスルームで熱いシャワーを浴びた。
 シャワーを浴びながら、昨夜の田村との会話を思い出す。
 
「ボクは、木下さんと田島さんが、どこか共通点があるような気がするんですよ!」
 田村は酔っていた。
 我々はオマーンの空港での約束通り、田村のいきつけの下北沢にあるオデン屋で飲んでいた。
 オレは沖縄の「泡盛」のお湯割りを飲み、日本酒に目がないという田村は吟醸酒を飲んでいた。
 田村が勧めるだけあって、この店のオデンは鰹だしの利いた淡白な味わいで、オデン以外の料理もかなり上質な味わいであった。とくにカニ肉を白身魚のすり潰したものと練って蒸した団子は、美味しさのあまり酒がかなり進んでしまった。
「オレがあのサメのように冷徹な男と似ていると言うのか」
 オレも酔っていた。
「いや似ている、と言うんじゃなくて…共通点がある、ということです。つまり…」
 田村はそう言って手酌で大きめのぐい飲みに酒を注いだ。そしてそれをぐいっと呷ると、そのぐい飲みに次の台詞が書いてあるかのようにじっと見つめ、言葉を続けた。
「自分の目的があると、それにまっすぐに進んでいく強さって言うのかなあ…だから誤解されやすいし、敵も多く作ると思うんですよ」
 そう言って、オレをちらっと見た。
「あー…べつに田島さんに敵が多いって意味じゃないですよ」
「まあいいよ…オレも決して誰からも好かれるようなタイプじゃないし…で?」
 先を促した。
「うーん…でも…なんていうのかなあ…その厳しいまでの強さに、もうこれ以上ついて行けない! なんて何度も思うんだけど、その厳しさの果てに、ちらっと垣間見せる優しさというか、ロマンチックなところがあるんですよ」
「ふーん…」
 オレはお湯割りを一口飲んで、カウンターの後ろの壁の棚に置かれた、シーサーの置物をぼんやりと眺めた。
 このシーサーと云うのは、狛犬のような霊獣で、沖縄の家々には必ずと言っていいほど、屋根や門に飾られている。
 この店の主人が沖縄に行ったのだろうか? それとも馴染みの客のお土産なのだろうか?
「一度、こんなことがあったんですよ」
 田村が思い出したように言う。
「田島さんも今回のレースで気付いたと思うけど、木下さんって、美子さんにすごく厳しくて冷たいじゃないですか…オレも時々、もう少し労わってあげればなあ…なんてお節介にも思う時があるんですよ」
 確かに木下には女性を思いやる気持ちが足りないような気がする。あれだけのルックスでスポーツマンとしての実力もあるのだから、当然、女性にはモテルだろう。そういう男特有の思いあがりなのか。
「レースの練習中のことなんですけどね…オレたちのチームが、八ヶ岳の赤岳鉱泉でビバーグしていたんですよ。外は相当寒くて、多分、氷点下にはなっていたと思うんです。みんなダウンのシュラフを持参していて、それをゴアテックスのシュラフカバーに包み、それにくるまっていたんです。そしたら夜明けにひそひそ話す声が聞こえたんです」
 また田村はオマーンの空港で見せたような、遠くを見つめる眼差しになった。
「ボクは誰か起きているのかな…なんて思いながら、その声のほうに首を伸ばしたんですよ。そしたら美子さんの肩を木下さんが抱いて、八ヶ岳の山々を指差しながら、それぞれの山の名前の由来をひとつひとつ説明してやっていたんです。山々は朝日を浴びてみんなピンク色に染まってすごく綺麗だったんですけど、木下さんが最後に、「この景色を一緒に見ることができて良かった…」って言うのが聞こえたんです」
 ふとメグの顔が浮かんだ。
 愛する女性とともに、自分の見出した感動を分かち合う…その感動が、究極の厳しさの果てにあるのなら、それを分かち合うことは容易ではない。しかしそれが実現したとき、それはどんな愛情表現も色褪せてしまうほど、尊いものになることをオレは知っている。
「ふーん…あの男がねえ…」と言葉では言ったが、その気持ちをもっとも感じているのが美子だろう。だからこそ、あのような扱いを受けても、黙ってやつについていくのだ。それは他人の目からは理<解しがたいことかもしれない。
「そうなんですよ…あー見えても…木下さんはそういうところがあるんです…」
 そう言って田村はオレを見て微笑んだ。
「どうです? ボクが、木下さんと田島さんに共通点があるって云う意味が、判るような気がするでしょ!」
「さあ・・・どうかな・・・オレにはそんなロマンチックなところがあるようには思えないが・・・」
 
 シャワーを浴びて、幾分、酒が抜けたような気がした。
 バスタオルを腰に巻いたまま、プロティン・ジュースを作り、それをミキサーから直接喉に流し込んだ。
 その時、玄関の呼び出しベルがなった。
 バスタオルを巻いたまま、ドアから外を覗くと宅配便で、その業者は小さな小包を置いていった。
 クリスマス・プレゼント? 
 でもいったい誰が…
 オレはもどかしげにその小包を開けた。
 中からニコノスのカメラとカードが出てきた。
「田島さん…オマーンの海で美子を助ける際にあなたが無くしたカメラはたしかこのタイプだったと思うが…面と向かって礼は言えなかったが、今回はこれで勘弁して欲しい。 木下」
 オレはオレンジ色のニコノスのボディを見つめた。
 人生において、自分なりのけじめをつけようとする男達がいる。
 決してへつらうことなく、時間にも流されず、自分流のやり方で決着をつけようとする男達・・・
 今の世の中では多少古臭く思われ、しかもとっつきにくいタイプの男。
 きっとオレたちの親父や祖父の世代には、そういう男たちがたくさん居たと思う。
 もう一度カードを読んだ。
 付き合いの古い、懐かしい友人からの手紙のような気がした。



Copyright(c) 2001 Tokichi Kimura All Rights Reserved.

Designed by Fuji media Farm corp.