新年と云っても日付が変わるだけだし、それも新暦に拠るものなので、古来から連綿と続く気象条件や自然のもたらす事象とはまったく関係がないはずなのに、なんだか新しい空気が漂っているような気がするから不思議だ。しかしそれも5日か6日までの正月休みの間のことで、1月の中旬にもなると、いつもの厳しい寒さの冬の一日に戻ってしまう。 明後日の発売を控え、見本誌が仕上がっていると、ワイルド・アスリート・グラフィックス誌の編集部の内坂から電話があり、オレは編集部を訪ねることにした。内坂に言わせると「古屋郷子も呼んである」そうで、郷子とも久しぶりに会うことになっていた。 実は我々はオマーンから帰ってから一度も会っていない。 互いの連絡先も知っているし、いつでも連絡が出来たはずだ。が、オレも郷子も連絡を取ろうとはしなかった。 何故だろう? あの日… フィリップがオレの部屋にやってきた日、オレは自分の気持ちをすべて郷子に伝えた。そして郷子もそれに対して、正面から向き合い、しっかりと受け止めてくれた、とオレは感じた。 それなのに、オレたちはまったく連絡を取り合っていない。 オレはなんとなくこの日本で再会すると、オマーンで築き上げた二人の絆が、簡単に断ち切れてしまいそうな、そんな気持ちになっていたことを認めないわけにはいかなかった。自分の心の中で芽生えた繊細な気持ちに対し、少し臆病に、神経質になっているのかもしれない。 木下から送られてきたニコノスを、小さめのハリーバートンのカメラケースに詰め込み、ケースのロックを閉じた。 今夜からパラオに行くことになっている。 今夜の遅い便でグアムまで飛び、2時間のトランジット・タイムを経て、翌朝早くにはパラオには到着するだろ。午前中はさすがに無理だが、午後には一本、ダイヴィングができるかもしれない。海上が荒れていなければブルーコーナーに行ってもいい。例のツガイのナポレオンはまだいるのだろうか? 他の機材や荷物はすべて成田に送ってあるので、手持ちの荷物はこのハリーバートンといつものグレゴリーのデイバックだけだ。正確にはこのグレゴリーのバッグは「デイ&ハーフ」というサイズで、一応オーバーナイトに対応可能なサイズとなっている。からだの大きなオレは、通常のデイバッグを背負っていると、非常にバッグが小さく見えて滑稽だ(とメグが言っていた)。だからこのデイ&ハーフを愛用しているが、グレゴリーのバッグは値が張るだけあって、使い勝手も耐久性も素晴らしい。素材には22口径の銃弾をも跳ね返す、高い強度のものを採用しており、背負いやすさも抜群だ。 多少、重量が気になるがハリーバートンの機能性の高さも素晴らしく、あのアポロ8号が、月の石をこのハリーバートンに入れて地球に持って帰ったことからも、このトランクの信頼性を伺い知ることができる。 このようなキャリング・グッズを持って旅に出ると、己まで強くなったような気がする。 編集部に到着すると、すでに郷子は内坂の前の椅子に腰掛け、出来上がった見本誌を手に取り、内坂と真剣に話していた。 約2ヶ月前、この編集部で初めて郷子を紹介された日が思い出された。それは遥か昔のような気がした。 「おー健介! 来たか…」と言って内坂は腕時計を見た。 「相変わらず、約束の時間より15分ほど遅いな…」 そう言って、内坂は郷子の隣の席を身振りで示し、オレにもう一冊の見本誌を投げながら付け加えた。 「まあオレもそのつもりで約束の時間を設定しているけどな…古屋さんもたった今到着したばかりだ」 「どうも…」 郷子の目をちらりと見て、腰掛けた。郷子は見本誌を膝の上に置いて、こちらをじっと見つめている。その視線を感じながらも、オレは本を開いてページを繰った。 「文章、写真、共に良く出来ていると思う」 内坂は机の中央で両手を組み、我々二人を交互に見ながら続けた。 「今回の現地での様々なアクシデントや、健介がレースに参加せざるを得なかったことを考慮に入れると、本当によくやってくれた。副編も大変喜んでいるよ。それに古屋さんのリポートも、読者を引きつける力強さを感じる。失礼な表現だが、まるで男性が書いたような硬派な出来だ」 「有難うございます」 郷子が横で呟いた。 オレは相変わらず己の撮影した写真と、郷子のレポートを流し読みしていた。 内坂の指摘するとおり、郷子の文体は女性を感じさせなかった。言葉尻の歯切れが良く、無駄な表現を極力省いた文章ながら、的確に状況描写はなされていた。 それから小1時間ほど、我々はオマーンでの取材の話や、レースのことについて話した。 「あー…そう言えば、アメリカのアウトサイド誌も最新号でレイドゴロワーズを特集しているよ!」 内坂は机の下に積まれた雑誌の山から、一冊の本を取り出して、机の上に置いた。 アウトサイド誌と言えば、アメリカのアウトドア誌の老舗である、フィールド&ストリーム誌と並ぶ、由緒あるアウトドア専門誌である。 その表紙を見た瞬間、オレは一瞬、郷子の方を見た。郷子の方もほぼ同時にオレを見た。 「その表紙の写真なあ…フランス人カメラマンが撮ったそうだ。 たしか…フィリップ・パティシエと云ったかなあ…良く撮れているよ…」 オレはその本を手にとり、ページを繰った。巻頭に10ページ近く、レースの特集が組まれており、扉の写真も表紙と同じ、オレの撮影したものが使われていた。 「健介もなあ…レースに参加したのだから、それくらい迫真の写真が撮れていればなあ…」 内坂は椅子を後ろに倒して、机の中央で組んでいた手を頭の後ろに廻し、椅子を揺らした。 「まあ…でもあまり贅沢は言うまい…さっきも言ったけど、今回の状況を考えれば上出来だよ」 郷子がやや身を前に乗り出した。 額に汗をかいている。 「古屋さん…なにか?」と内坂。 郷子は内坂を見て、オレを見た。 オレは郷子をまっすぐ見返した。 数秒が経過した。 内坂が小さく頷いた。 郷子が前に乗り出したからだを元の位置に戻し、わずかにため息をついて椅子にもたれかかった。 編集部の中の、我々3人のいるその一角だけが、少し温度が高いような気がした。 「さてと…オレはそろそろ行くかな…成田に行く前に寄るところもあることだし…」 立ち上がりながら内坂と握手をした。 「私も一緒に出ます」 郷子も内坂と握手をした。 「今回は本当におつかれさま! もし良ければ、また健介と組んでもらって取材をお願いするかもしれない…それとも今回で懲りたかな?」 内坂は屈託のない笑顔を郷子に向けた。 「いいえ…田島さんと一緒に仕事ができて、とても勉強になりました。また是非、お願いします」 最後の方はオレの方を見ながら言った。 軽く頷く。 編集部を出ようとしたときに、内坂が後ろから声を掛けた。 「このアウトサイドの表紙の写真…本当に良く撮れているよ」 オレと郷子は振り返り、しばらく内坂を見ていた。が、なにも言わずにそのまま編集部を後にした。 我々は出版社を出て、中目黒の駅に向かって歩いた。 「なんだか内坂さん、あの写真のこと、気付いているような気がしたけど…」 郷子は前をまっすぐ見ながら呟いた。 「あー多分…」 オレも郷子の方を見ないで応えた。 この件はこれですべて終わった。 わずかにため息をついた。 「ところで…これからちょっと行くところがあるけど、もし時間があるなら付き合ってくれないかな…」 郷子は立ち止まり、オレの方を向いた。 「オマーンから帰って一ヶ月近く連絡もしてこないで、久しぶりに会って、「もし時間があるなら付き合ってくれ」って、いつも女の子にそういう思いをさせているの?」 「いや…そういうつもりじゃ…なんて言うのか…」 実際になんて言っていいのか判らなかった。しかし郷子の少し怒った様子がオレには嬉しかった。 「スマナイ…本当はすぐにでも会いたかったんだが…電話をする勇気がなかった」 このところの気持ちを素直に話した。 「田島さんって不思議な人…近づけば近づくほど遠慮深くなるって言うか…ところでどこに行くの?」 「まあいいからつきあってくれ」 小さな写真の中でメグが笑っていた。 オレはその写真の前に、レイドゴロワーズの選手が身に付ける認識票を首から外してそっとおいた。それから線香をあげた。 手を合わせて心の中でメグに話し掛ける。 オマーンでの日々が次々と頭を巡った。 郷子はオレの後に、写真のメグをじっと見つめ、同じように線香をあげて手を合わせた。 線香の香りが部屋を充たし、その香りが心を静かに落ち着かせた。 「レースのことは新聞などで読みましたよ…」 メグの母親が言った。 メグが亡くなってから、月に一度くらいの割合で、こうして線香をあげに来る。メグの母親は、当初はオレのことを強く非難していたが、その内、優しく受け入れてくれるようになり、今では言葉も交わすようになった。 幼い時に父親を亡くし、母一人、娘一人で暮らして来たことを考えれば、彼女のオレに対する態度は、寛容過ぎるとも言えた。 「もちろんカヤックの件も知っています・・・」 彼女の目元はメグに似ていた。 その目が少し潤んだような気がした。 「娘も今度のことは誇りに思っているでしょう・・・」 沈黙が流れた。 3人とも、今の言葉の意味と重さを噛みしめているようだった。 「こちらのお嬢さんはすごく素敵な方ね」 それを聞いて郷子は顔を紅潮させ、「そんなことは・・・」と言って、珍しく俯き加減で呟いた。 「後でゆっくりとこの本は読ませてもらうわ…」 彼女はワイルド・アスリート・グラフィックスの見本誌をぱらぱらめくりながら、我々二人を交互に見つめた。 「またお二人で遊びにいらしてくださいね」 その言葉がオレの胸を熱くした。 「一緒に来てくれて有難う」 メグの家を出て、しばらくしてからオレは郷子に礼を言った。 「こちらこそ…誘ってくれて、すごく嬉しい。彼女、とても可愛い人ね・・・それにお母様にすごく似ている。あの方も若いときはかなり魅力的だったと思う」 オレは小さく微笑んだ。 「さてと…今夜のフライトは9時だから、そろそろ成田に行かなきゃ…」 1月の日はとても短く、5時ですでにあたりは暗くなり始めていた。 これから新宿に出て、そこからリムジンバスに乗れば、成田にちょうどいい時間に着けるだろう。 「パラオから帰ったら、また会ってくれるかな?…いろいろと話もあるし…」 甲州街道を走る車はすでにヘッドライトを灯しており、その明かりが郷子の横顔を照らし出す。その横顔に笑顔が大きく広がり、オレの方をまっすぐに見て言った。 「その必要なないでしょう…」 郷子はバッグの中からなにかのチケットを取り出した。 「だってグアムでのトランジットも長いし、機内でもゆっくりと話ができる。それに1週間のパラオは結構長いと思う」 <- 完 -> |