第一チェックポイントのワディ・バニ・アウフは、さながら野戦病院のような様相をしていた。我々以外にも落馬事故や、馬そのものが骨折するなどの事故が相次ぎ、メディカル・サーヴィスのスタッフが忙しく走りまわっている。愛馬のひどい状況を見て、大会関係者にすごい形相で詰め寄るベドウィン族の人々。それに負けない剣幕でフランス語でまくし立てるスタッフ。様々な言語や感情が飛び交っていた。
「美子さん、大丈夫?!」
 我々が近づくのを認めて郷子と阿部が走り寄ってきた。
 オレはとりあえず水を求めて、スタッフの用意したポリタンクから、自分のボトルに水を補給し、それを貪るように飲み干し、再びボトルを満たして美子に持って行った。
 ボトルを美子に手渡すと、少し離れたところに座りこみ、次のステージに必要な器材をバッグから取り出し確認し始めた。
 ここを出発するとしばらく食料や水の補給などは出来なくなる。いくら順調にいっても次のアシスタント・ポイント(食料や水の補給、次のステージで使用する器材などを準備する場所)までは4日間はかかるだろう。もちろんその間に撮影するフィルムも持って行かなければならない。
「どう? 疲れた? カメラも持っているし大変でしょう・・」
 見上げると郷子が立っていた。待っている間に少し日焼けしたようで、鼻と頬が少し赤くなっている。その顔がひどく幼く見える。それにとても魅力的だ。
「あー・・・最初はこんなレースを引きうけた自分を呪ったよ。でもね・・・事故の後の彼女の態度を見ていたら、なんだかすごくやる気になってきた。本当にガッツあるよ・・・彼女は」
「好きになった?」
 郷子はオレの横に座り、いたずらっ子のような表情でオレの顔を覗きこむ。
「なに言ってんだよ・・・彼女は木下と一緒に暮らしているんだぞ」と言いながら、オレはニコンからフィルムを抜き取り、次のフィルムを装填する。
「そっちこそ残念だったんじゃないのか? 初めて木下と会った時、すごく嬉しそうな表情をしていたぞ」
 裏蓋をぱちんと閉め、シャッターを2度切ってフィルムを送る。
 そして郷子の方を見た。
「気になる?」
 相変わらずいたずらっ子のような表情をしている。
「あのルックスで、あれだけ英語が話せて、リーダーとしての決断力もある。その上、スポーツが万能なら、十分に女性にもてるだけの条件は揃っていると思うよ。だけど男はそれだけじゃない」
 すべての器材をマウンテン・スミスの60リットルの容量のバッグに仕舞いこむ。これで水を4リットル積めこむと、おそらく15キロの重さになってしまう。しかし1日1リットルの水は不可欠だ。
「それじゃあ、それ以外に男に必要な要素っていったいなに?」
 郷子は真面目な表情になって尋ねる。どうも郷子の真面目な表情が苦手だ。すべてを見透かされているような気がするのだ。
「それは・・・」
「さあ準備が出来たら出発しよう!」
 木下が美子の手を取り立ちあがらせ、みんなに向かって叫んだ。
 田村や堀内はすでにバッグを背負い、出発の準備をしている。オレも慌ててバッグを背負い、ベルト部分に取り付けたウエストバッグにカメラを仕舞いこんだ。
「このフィルムを持っていてくれ」
 オレは郷子に撮影済みのフィルムを手渡した。郷子は両手でそれを握り締めた。そして先ほどの真面目な表情のまま言った。
「頑張ってね・・・それに怪我しないように・・・」
「次のアシスタント・ポイントで会おう」
 オレはそれだけ言うと、みんなの後を小走りに追っていった。次のスネークキャニオンでは渓流を遡行することになる。いくつかの個所では泳いで瀬を渡らなければならない。夕方になって冷えこむ前に、スネークキャニオンを抜けなければやっかいだ。木下が急ぐ意味が判る。
「それ以外の要素って、次に会った時に教えてくれるの?」
 郷子が後ろから叫んだ。
 オレは後ろを振り返らないで、右手を挙げて親指を空に向けた。
「それは優しさだ」と言いたかった。だが今のオレに優しさを語る資格があるのか?
「楽しみにしてるわ!」
 もう一度郷子が叫んだが、その声は手の届かないずっと遠くから聞こえてくるようだった。
 
 スネーク・キャニオンのステージは、英語の説明では「キャニオニング」と書いてあったが、これは日本でいうところの「沢登り」である。渓流を遡行し、時には川淵をヘツリ、またある時は滝を登る。そしてさきほども言ったように大きな瀬は泳いで渡るのだ。
 夏の天気の良い日ならばとても気持の良いステージだが、日中は30度を越えるオマーンでも、夜には一気に5度近くまで気温が下がる典型的な砂漠の気候である。夕暮れまでにこのスネーク・キャニオンを抜けないとかなりきついことになる。それにこの区間は主催者側が指定するレッドゾーン(危険を伴うため、夜間の行動が制限されている)である。我々は先を急いだ。
 今回のように水に浸かる可能性のあるステージでは、全ての器材を一度防水バッグに入れて、それを丸ごとザックに入れる。こうするとザックに浮力が生まれ、泳いで瀬を渡るときにはそのザックが浮袋のような役目を果たす。
 我々のチームは全員がポリプロビレンのシャツに、ナイロン素材のスパッツを着用している。この素材のものなら、ずぶ濡れになっても自分の体温で乾いてくれる。これがコットン素材だと絶えず体温が奪われ、しまいには低体温症で死ぬことさえあるのだ。シャツ一枚で生死を分かつなんて、通常の生活では考えられないことだが、このような極限状態の中では当たり前のように起こりうる。
 3つほど大きな瀬を泳いで渡り、大小二つの滝を登って、午後6時にはスネーク・キャニオンを抜けることが出来た。滝のところでは、美子が負傷しているのにも関わらず見事にリードを務め、トップロープを確保した上でチーム全員が滝を登った。田村の言う通り、そのクライミングのムーヴは美しく、まったく不安感のない登りであった。あの細い、しかも傷を負った腕で、どうしてあのようなクライミングが可能なのか?
「よーし、今夜はここでビバーグしよう。ここから先もレッドゾーンが続くので少し危険だ。明日の早朝にここを出発して、一気にジョバール・アクーダルに出よう」
 木下の指令に従って、皆がザックを下ろした。
 ちょうど川が途切れた広々とした中州のようなところで、小石まじりの砂地だが寝心地が良さそうだった。
 レイドゴロワーズの第二ステージはキャニオニングとマウンテン・オリエンテーリングだ。
 ワディ・バニ・アウフを出発した我々は、次のアクセス・ポイントであるワディ・ハルファインまでの70キロを、キャニオニングとオリエンテーリングを繰り返しながら進むのだ。70キロという距離は平地ならなんら問題がない長さである。しかし標高差2000メートルを越え、しかも主催者から渡された地図とコンパスのみ、右も左もまったく判らない異国で、目的地にストレートに辿り着けるのかどうかも判らない。一日に20キロの距離を稼げれば優秀なほうだろう。それに明日ジョバール・アクーダルに出れば、おそらく一切水の補給は出来ないだろう。
 堀内と田村は流木を集めてきて焚き火を始めた。
 木下と美子は焚き火のそばに座り、美子の傷口のガーゼの交換を始めた。スネーク・キャニオンはそのまま水が飲めるほど、清冽な流れであったが、きちんと消毒しておかないとこの先危険である。
 田村と堀内は大きめのコッフェルを二つ取りだし、それを焚き火の上に置き、夕食の準備を始める。
 オレはカメラ機材に水が入っていないかを確かめながらフィルムを交換し、その夕食の準備風景を眺める。が、夕食と言ってもフリーズドライの袋詰を熱湯で戻すだけである。その袋には美味しそうなスキ焼きやチキンライスの写真が載せられているが、できあがりはどれもこれもゲロのような代物で、その写真とは程遠いものだ。ただその風味だけはするのだが・・・だがこの最低な夕食でも、荷物を少なくするために、通常の二人前を5人で分けることになっている。しかも一日一食だ。きちんと食べておかないとからだが持たないだろう。
 椰子の木の向こうに落ちる夕陽がきれいだ。遠くに聞こえる川のせせらぎも心地よい。これが普通のキャンプだったらどんなに楽しいことだろう。
 しかし明日からレースも本格的に厳しくなる。それに納得のいくショットも撮らねばならない。
 そういうことを考えていると、空腹にも関わらず瞼が重くなってきた。



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