血まみれの美子を見たとき、オレはもうこのレースが終わったと思った。レイド・ゴロワーズのルールでは、一人でも選手が欠ければ、その時点でチームは失格である。
 田村が興奮した口調で木下に詰め寄った。
「いったいなにがあったんです?」
 美子がなにかを言うのでそれを聞こうと、ひざまづいて彼女の顔に耳を近づけた。そしてその言葉の意味を理解した時、オレはたった今、自分が感じたことを心から恥じた。
 美子はこんな怪我をしたのにも関わらず「最後までやるから、諦めないで連れていってね・・・」と何度も繰り返していたのだ。確かに見た目は小柄でか弱いイメージを与えるが、彼女はこれくらいのことでレースを諦めるようなヤワな精神の持ち主ではない。
「とりあえず美子をここから移動しよう!」
 そう言って、木下は美子の脇に手を入れた。オレと田村は美子の足を片方ずつ持って小さな木陰に運び、そこに横たえた。堀内は木下の代わりに馬の手綱を引いて、オレたちのあとからついてくる。
「実はさきほど取材ヘリが、低空飛行で我々の頭上を飛んでいったのだ」と、木下はそのヘリを恨むような口調で言った。そのヘリならさきほどオレたちも見たやつだ。
「それまでは完璧だったんだが、そのヘリの爆音に興奮したのか、美子の馬が暴走をはじめて・・・」
 そこで木下はその状況を今も見ているかのように、険しい顔つきになった。
「オレの馬をスゴイ勢いで追い越し、そのまま美子は投げ出された。オレはひとまずその馬を捕まえ、そして美子の元へ戻った。すでに人だかりが出来ており、それからすぐにみんなが到着した」
 木下の説明を聞きながら、田村と共に美子の血を水で洗い流した。出血の主な原因は、左手の前腕のあたりにばっくりと開いた傷で、それ以外は軽い擦過傷だけだった。致命的な大きな傷はなく、少しはホッとしたが、これで飲み水がなくなってしまったことにも気づいた。
 痛みを尋ねると「腰がすごく痛い」と美子は訴えた。腰に強い打撲を負っているかもしれない。が、とりあえずは腕を止血しなければならない。オレは頭に巻いていたバンダナを解いて、それで美子の腕の付け根を縛った。
「どう起き上がれる?」
「うん・・・少し待って・・・とりあえず座ってみる」
 美子は怪我をした手をかばいながら、不器用にもう一方の手を支えに体を起こし、木に背中をもたれかけさせた。そして「ふー」とため息をついた。
「もう誰がなんと言おうと、2度と馬には乗りたくないわ・・・」
 そう言うとみんなの顔を見まわして、小さく微笑んだ。
 オレはその笑顔を見て、胸が詰まる思いがした。顔は未だに砂と血で汚れているのに、そこからこぼれる白い歯が、とても輝いていて美しい。
 いつのまにかシャッターを切っていた。
「今度はきちんとお化粧をした顔も撮ってね」と美子。
「あー・・・スマナイ・・・こういう時に・・・」
 オレは美子にカメラを向けたことを謝った。
「いいのよ・・・田島さんはそれが仕事だし、このレースの厳しさをいろいろな方法で切り取らなきゃ・・・」
 そう言うと、美子はよろよろと起き上がり、右手を木についてなんとか立ち上がった。
「大丈夫か? 美子・・・」と木下は彼女のからだを支える。
「このまま美子を馬に乗せて、馬を引いて行こう。タカシ!
 そのまましっかりと馬の手綱を持って動かないようにしてくれ!
 田島さんはオレと一緒に美子を・・・」
 そう言うと彼女のからだを馬の背中に押し上げた。美子は少しうめいたが、オレも手を貸すとなんとか鞍に跨った。
 木下は田村が引いていたもう1頭の馬に乗り、堀内に向かって言った。
「よーし、そのまま静かに馬を引いて歩かせてくれ。途中で疲れたらヒロと交代だ。おそらくすでに25キロは来たと思う。あと多くても10キロほどだから、このまま歩いても11時半までには第一チェックポイントに到着できるだろう・・・そこにはメディカル・サーヴィスもいるはずだ。そこで美子の傷を診てもらおう。よし早速行こう!」
 木下はそう言うと馬を歩かせた。それに続いて堀内も美子を乗せた馬を引く。その後をオレと田村が歩き始めた。
 
「いやあ・・・最初に倒れている美子さんを見たとき、もうボクはレースが終わったと思いましたよ・・・」と田村。
「あー、オレも同じように思ったよ・・・でもあの人は大した女性だよ」
 そう言って、オレは馬上で揺れている美子の背中を見た。傷口をかばうように少し背中を丸めている。
「実は美子さんは我々のチームの中で、一番クライミングの腕がいいんです。去年の夏には木下さんと二人でエルキャプテンに登ったんだけど、ずっとリードを取っていたらしいんですよ。木下さんに言わせると、すごくムーヴがきれいで無駄がないって・・・」
「あの二人は付き合ってるのか?」
「えー、結婚はまだですが、一緒に暮らしているし・・・」
 そうか一緒に暮らしているのか・・・あのサメのような冷徹な男と、イルカのように愛くるしい女性が・・・
「ヒロは決まった相手がいるのか?」とオレは田村に尋ねる。
 田村は相好を崩した。
「ボクは随分若い時に結婚して、昨年、長男が生まれたんです。今回のレースは、息子の1歳の誕生日を記念して出ようと思ったんです。完走できたらそれを息子にプレゼントしようと思って」
 オレはちらっと田村を見た。家族を思い出しているのか、目が少し潤んでいた。オレはこの男に好意を感じた。
「田島さんは? ご結婚は・・・」
「あー、オレは決まった相手はいないよ。仕事がら留守ばっかしてるから・・・それに・・・」
 オレはある女の顔を思い出し、少し暗い気持になる。
「それに?」と田村は先を促す。
「それに・・・一人が好きなんだよ、気楽だしな」
 話をはぐらかした。
「今回、ご一緒の古屋さん、可愛い人ですよね。以前からのお知り合いなんですか?」と田村は興味深げに尋ねる。
「いや、今回の取材で初めて会った。確かに可愛い人だな」
 郷子の顔を思い浮かべる。多分、第一チェックポイントで我々の到着を待っているだろう。オレが今なにか自慢できることをやり遂げた時、いったいそれを誰に伝えたいのだろう? 郷子か? だが、それほどの関係じゃない。
 歩き始めて30分ほど経った頃、ゴールのほうから1台のランドローバーが近づいてきた。その車には大きく「MEDICAL」と書いてある。恐らく先に到着した他のチームの誰かから、落馬事故のことを聞いたのだろう。我々に近づくとスピードを落として手前で止まった。
「怪我をしたのは誰だ?」
「後ろの馬に乗っている女性だ!」と、木下は馬から降りながらメディカル・サーヴィスに伝える。
 それから目の前で繰り広げられた、メディカル・サーヴィスの処置は見事と言う以外なかった。
 馬から美子を降ろし、折畳みの椅子に座らせると、即座に腕を消毒し麻酔の注射を打った後、さっと3針縫って治療を終えたのだ。
 その時間僅かに10分足らず。が、日本の医者だったらたっぷりと15針は縫う大きさの傷ではあるが・・
「よしこれで傷が広がることはないだろ。面倒だけど傷口のガーゼだけは一日一回交換してくれ。あと5キロほどでチェックポイントだよ。それじゃあ頑張って!」
 そう言い残すと、メディカル・サービスの車は来た道を戻って行った。
 美子の傷に関しては、ひとまず安心だ。
 だが12日間にも及ぶ長いレースは始まったばかりで、まだ4時間ほどしかたっていない。いったいこれからどんなことが待ちうけているのだろう?



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