彼らの部屋はあらゆる荷物が散乱していた。
 旅行用のトランクはもちろんのこと、マウンテン・スミスの大型のザックが数個、色とりどりのザイル、ハーネスやカラビナ、それに携帯の浄水機やグランテトラのボトルなど、レースにおける、あらゆる状況を想定した機材で溢れていた。
 そのアウトドアの機材に囲まれるようにベッドが二つ並んでおり、ひとつのベッドには大柄な男が腰掛けていた。男の陰になって見えないが、そのベッドに横になっている人物も認められた。
 我々が部屋に入って行くと、大柄の男は立ち上がり、まっすぐこちらに歩いて来て、手を差し出して自己紹介をする。
「到着早々申し訳ない・・・チーム・ジャパンの木下真司です」
 オレは木下の手を握り返す。意識しているのだろう、その手に握力を感じる。身長はオレよりやや高いので180以上はあるだろう。年齢はオレと同じ位で35歳前後、だがどことなく幼さが残る表情をしている。が、目じりの皺はあきらかに35歳の男のそれで、妙なアンバランスさが、この男の魅力になっていることは認めざるを得ない。しかしオレは気に入らなかった。郷子の表情を見ると、あきらかにこの木下のことを気に入った様子なのだ。その証拠にオレより握手する時間が数秒長いではないか。
「とりあえずメンバーを紹介します。さきほどお二人をお迎えに行ったのが堀内と田村。そして・・・」
「益田美子です」
 もう一方のベッドに腰掛けていた女性が立ち上がり、自己紹介をした。
 今度はオレが長く握手する番だ。
 オレはこういうレースに参加する女だから、相当ごつい女を想像していた。しかし目の前に立つ益田美子はほっそりとしていてしかも小柄で、まるで今までベッドに座り、編物をしていたような雰囲気である。ただ短く刈り込んだショートなヘアスタイルと日焼けした顔だけが、選手らしい印象を与える。
 オレと郷子が全員に向かって自己紹介を済ませると、木下は我々に座るように促した。
「こんなにちらかっていますが、そこへお掛け下さい」
 木下はオレたちに、さきほどまで益田美子が座っていたベッドを勧める。そして自分はさきほどの位置に戻った。
「実は昨日のことなんですが、堀内と阿部が街まで携帯コンロのガスを買いに出かけたのですが・・・」
 阿部というのはベッドで横になっている人物らしいことは、木下が顎をしゃくったので理解できた。
「その帰りに車の前を現地のこどもが飛び出して、それを避けようとしたときにハンドルを切り過ぎてしまったらしくて・・・止まっていたトラックにドン! そうだよなあ堀内」
 堀内はドアの前に立っていたが、そう声を掛けられ、申し訳なさそうに小さく頷く。立派な顎鬚を蓄えてくるが、なんだかとても小心者のようである。
「堀内は運転していてシートベルトを締めていたから、まったくなんともなかったのですが・・・阿部は車の荷室で、買ったガスの仕分けをしていたらしい・・・。そして衝突のはずみで前に投げ出されたんですが、足だけはロールバーに挟まって残っており、その瞬間グキっ!・・・病院に行く前からあきらかに折れているのが判るほど、奇妙な角度に足が曲がっていたらしいんですよ」
 オレと郷子は頷き、先を促した。
「ふー・・・一年間、このレースの為にトレーニングを続け、そしてバッタみたいに頭を下げて、各企業から支援金を集め、ようやくここオマーンまでやってきて、その挙句メンバーがレース前の負傷で参加中止・・・こんなことってありますか?」
 木下の気持は良く理解できる。とくにリーダーとしてチームを引っ張ってきた以上、その努力は相当なものだろう。だが、その言葉の端々に堀内や阿部を非難しているような響きが感じ取れ、オレはこの男に少し非情さを感じた。もしかして郷子に対する嫉妬かもしれないが・・・
 同じように感じたのだろう。阿部がぼそっと呟いた。
「すみません・・・オレのために・・・」
 その声は僅かに涙声になっていたが、壁のほうに向かって横になっていたので、その表情は読み取れなかった。
「そこで相談なんですが・・・田島さん、今回は我々日本チームの活躍と、レース全体の取材のために来られたんですよね。でも我々が参加しなければ話にならない。で、どうです 一緒にレースに出てもらえませんか? この阿部の代わりに・・・」
 オレは思わず郷子と顔を見合わせた。今夜はよく彼女と顔を見合わせる夜である。
 部屋を見廻すと、美子や田村、そしてさきほどまで俯いていた堀内まで、オレの顔を凝視し、返事を待っている。
「ちょっと待って下さいよ・・・オレはレース全体を追わなきゃいけないし、それにそんな体力もない。みんなの足を引っ張るだけですよ」
 美子や郷子の前で、「OK! 判った、引受けよう!」と、メキシコ人の農夫に、用心棒を頼まれたガンマンみたいにカッコ良く引受けたいが、自分の体力に相談しても、内坂の顔を思い出しても、ここは断る以外に手はない。
「レース全体の写真はなんとかなるんです! 話によると主催者側がオフィシャルな取材クルーを用意していて、各国のメディアにレース全体の写真を配布する予定なんです。ですから田島さんが我が日本チームに選手として参加して、その写真を撮り、そして配布された写真と組み合わせれば、今回の取材は成り立つはずなんです。お願いです。どうか我々と一緒に!」
 木下は必至に訴えた。
 オレは下を向いて考えた。確かに木下の言うように、日本チームが参加を取りやめれば、この取材は成り立たない。しかしオレはこのところ、まともなトレーニングをしていない。それに・・・トップを行くアスリートたちを、自分の目で追い、その姿をカメラに収めたい。
「田島さん・・・実はボクは多少アナタのことを知っています。以前はかなりの広い分野で写真を取られていたじゃないですか。そしてクライミングやカヌーの技術もお持ちのはずだ」
 顔を上げて木下を見ると、木下はさきほどと打って変わってにこやかな表情をしていたが、突然サメのような不気味な顔になりこう続けた。
「そう、あの事故が起こるまでは・・・」
 一瞬、この男がいったいなんの話をしているのか判らなかった。が、すぐにその意味を理解し、自分のからだが熱くなるのを感じた。それと同時にどうしようもない苦味と赤い怒りがこみ上げる。
「ちょっと待ってくれ! 」
 オレは思わず大きな声を出していた。
 その声に驚いたのか、それとも木下の言うところの意味を確かめようとしたのか、郷子がオレの横顔に刺すような眼差しを向けているのに気づいた。
 オレは自分で顔が紅潮するのが判り、木下に飛び掛りたい衝動を必至に抑えた。そしてそれにはなんとか成功したが、オレは決定的にこの男が嫌いになった。この男は「あの事故の」ことを知っている。そしてそれを、このタイミングでオレに思い出させたのだ。
「明日の朝まで・・・」
 なんとか声をしぼり出した。だがその声はどこか違うところから聞こえてくるような気がした。
「明日まで返事を待ってくれ・・・今夜は疲れ過ぎている」
 木下はいい返事を待っていると、いつもの爽やかな笑顔に戻って言い、美子はオレに期待する眼差しを向けた。田村や堀内も「よろしくお願いします」と頭を下げた。
 
 オレと郷子はそれぞれの部屋に入り、オレは荷物を解き、洗面所からグラスを持って来て、そのグラスに冷蔵庫の上においてあったジャック・ダニエルのミニチュア・ボトルをすべて注ぎ、そのままストレートで胃袋に流しこんだ。
 疲れていたが、まったく眠れそうにもなかった。
 木下の言った「あの事故」という言葉が頭の中をぐるぐる回った。
 窓の外を眺めると、真っ暗なビーチにはなにも見えなかった。ただ砂浜に打ち寄せる波頭の白さだけが、僅かに見えた。
 今度はアブソリュートのボトルをグラスに注ぐ。まるで酒が蒸発するように消えていく。が、頭の中はすっきりと冴えたままだ。
 ドアをノックする音が聞こえた。
 オレは窓を離れドアのほうに向かって歩いた。
 ドアを開けると、そこに郷子が立っていた。



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