郷子の言ったとおり、オマーンまでのフライトは非常に長かった。
 南回りでオマーンへと飛んだのだが、タイのバンコック、パキスタンのカラチと、二度のトランジットの後、ようやくオマーンの首都、マスカットの空港に降り立ったのだ。
「内坂さんとは長いお付き合いなんですか?」
 バンコックへと向かう機内で、現地での大まかな行動の打ち合わせを済ませた時、郷子が尋ねた。
 機内での夕食の際にサーヴィスされた、プイ・フュッセの酔いが心地良く、オレはかなり饒舌になっていた。
「内坂と知り合ったのは、パラオのダイヴ・ショップなんだよ。学生時代に水中写真を撮りにパラオに潜りに行ったんだけど、現地のダイヴ・ショップで内坂はダイヴ・マスターとしての修行中で、それで何度か一緒に潜っているうちに仲良くなってね・・・」
 紅茶にクルボワジェのミニチュア・ボトルを半分ほど注ぎ、それをかき混ぜながらオレは続ける。
「ヤツはその後、インストラクターの免許まで取って、そのままダイヴィングで食っていくはずだったんだ」
 クルボワジェ入りの紅茶を一口飲む。その様子を郷子が注意深く眺めている。おそらくオレの飲酒の多さをたしなめたいのだろう。食事中にプイ・フュッセを一本、その後にコート・ドゥ・ローヌのハーフボトル、そして食後にブランデー入りの紅茶を啜っているのだから無理もない。
「ヤツは結構真面目でね。人の命を預かるダイヴィング・ガイドの、その責任の重さに耐えきれなくなったんだ。インストラクターになって間もない頃に、同僚が事故で客を死なせてしまったことも影響したかもしれない。いずれにしてもインストラクターになって、それほど時間が経たないうちに日本に帰ってしまったんだ。そしてその後ダイヴィング雑誌の出版社に勤め、そこで再びオレたちは再会したという訳だよ」
「それじゃあ田島さんは水中写真のほうが得意なんですか?」
 郷子はオレの目の奥を覗きこむような真っ直ぐな眼差しで尋ねる。
 いわゆるアイトークというやつだ。このアイトークを得意とする女
を以前知っていた。その女の目を思い出し、少し気分が重くなった。
「得意っていうか、やっぱり一番好きだね。熟練したクライマーのムーヴや、カヌーイストのパドルさばきも優雅なものだけど、魚たちが泳ぐ、その優雅さにはとても敵わないからね・・・とくにマンタのあの堂々としていて、しかも優美で華麗な動きは、シャッターを切ることさえ忘れてしまいそうなほど美しいからね・・・」
 郷子の目の中の、なにかが少し変わった気がした。いや、オレがただたんに飲みすぎているだけかもしれない。
「ところで古屋さんは随分とアウトドアのことについて詳しいけど、付き合っている彼がそういうことが好きだとか・・・」
 さきほどの打ち合わせの時に、今回の取材で必要な道具類のすり合わせをしたのだが、郷子は野宿用にダウンのシュラフ、それにゴアテックスのビビーザックまで持参していたのだ。オレが今回持参したのはやはりゴアテックス加工したシュラフカヴァーだが、郷子の持つビビーザックは、コンパクトで軽量ながら、テントのような居住性の良さを持ち、頭部にメッシュカヴァーも付属されており、オールシーズン快適な睡眠を取ることが可能だ。そんなマニアックな道具に対する知識は女性では珍しい。これは誰か男の影響を受けているはずだ。さぐりを入れるのにはもってこいの質問である。だが、あくまでもさらりと流さなければならない。
「いいえ、彼の影響ではありません」
 郷子はまたこちらの心を見透かすように、まっすぐにオレを見つめた。オレは酒のせいで目が充血していないか心配になった。
「父が山岳写真家で、幼いときからよく山に連れていってもらったもので・・・今でもよく一緒に山には登ります」
 オヤジさんの影響か・・・オレは少しほっとして言った。
「へー・・・それじゃあお父さんはオレと同業者ってわけ・・・名前はなんていうの?」
「古屋義尚です」
 郷子は幾分誇らしげにその名を告げた。
 無理もない。古屋義尚と言えば山岳写真家の重鎮で、日本のアンセール・アダムスと言われるほどの人物である。もっとも本人は和製アンセール・アダムスの評判を好ましく思っていないらしいが、いずれにしても「オレと同業者・・・」と、軽くほざいた自分が恥ずかしくなった。その気持ちがよほど強かったのだろう。オレはマヌケにもこう言った。
「あの古屋義尚のお嬢様ですか・・・」
 郷子がクスっと笑った。
「イヤだ・・・急にお嬢様だなんて!」
 その言葉で、オレたちは二人とも笑い出したが、オレは心底笑ってはいなかった。
 なんだよ・・・あの古屋義尚の娘か!
 
 イスラム教徒の既婚女性は、人前では決して素顔を見せてはいけない。その決まりは空港内で働く女性にも適用されており、妖しげな目だけをベールから露出させ、手になにやら美しい紋様のペイントを施した女性係官が、オレのパスポートを入念にチェックする。LAのブルーレーンのイミグレーションの、3倍ほどの厳しいチェックをしたあと、また再び確認する。
「最近、イスラエルには行っていませんね?」
 この質問は日本でオマーンのビザを取得する際にも、すでに大使館から受けている質問だ。「イスラエルには行っていない」と答えたから、こうしてビザを持っているのだ。そのように指摘しようと思ったが、イスラムとユダヤの対立は、我々日本人には計り知れないものがあるのでやめておいた。
 空港を出た我々は、レイドゴロワーズの大会関係者が宿泊することになっているホテル「アル・ブスタン」に向かった。
「アル・ブスタン」はモスク風に建てられたホテルで、目の前が美しいビーチになっており、その庭には鬱蒼とした椰子の木が茂っている。アメリカ西海岸で目にする椰子の木より、野生が強いように思われ、そのモスク風建築物との対比が、砂漠のオアシスを連想させる。そうだアラビアン・ナイトの国にやってきたのだ。
 ホテルでチェックインを済ませた時、日本人が2人近づいて来て、我々二人を交互に見たあと尋ねた。
「カメラマンの田島さんとライターの古屋さんですね。ボクらは今回出場する日本人チームです。到着早々申し訳ないんですが、ボクらの部屋に来てもらえますか? 実はちょっとしたアクシデントがありまして、ウチのチームリーダーがどうしても今日中に話したいそうです」
 時間は深夜の二時。こっちはトランジットを二度したあと、このオマーンにようやく到着し、むちゃくちゃにスピードを出す、メルセデスのタクシーの後部座席でひやひやしながらこのホテルに着き、今チェックインを済ませたばかりなのだ。
 いくら取材とは言え、少し休ませてくれても良いではないか。
 そういう風に抗議しようと口を開きかけたが、相手はそれを察したように遮った。
「我々チームメイトの一人が交通事故で怪我してしまって、どうやら出場が無理なようなんです。お疲れのところ申し訳ないのですが、是非・・・」
 オレと郷子は顔を見合わせた。
 そして彼らの後に付いてエレベーターに乗りこんだ。



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