世界一過酷なレース「レイド・ゴロワーズ」の取材をしないか?「ワイルド・アスリート・グラフィックス」社の内坂から電話を貰ったのが先週の金曜日。オレは静岡の気田川でのカナディアン・カヌーによる川下りの撮影から帰ったばかりで、水中撮影で使ったニコノスのOリングにグリースを塗りこんでいる最中だった。
「レイド・ゴロワーズ」のことは、オレの先輩で敬愛するフォト・ジャーナリストである桃井和馬さんから噂は聞いていた。彼は偶然居合せた中南米のコスタリカで、そのレースを取材することになったが、主催者側から同じ取材をするのなら選手として参加して、リアルなレポートを、とのオファーを受け、イギリス、オーストラリア、アメリカの、ジャーナリストの混成チームとして参加したのだ。
 実際は女性を一人以上含む、5人のチームで参加するのがルールで、全員揃ってゴールを踏まないと完走したことにはならない。通常、そのレースは2週間近くにも及び、その間、選手たちは食うものも食わず、水さえも節約し、ほとんど睡眠を取らないで山々を駆抜けるという。
 桃井さんが参加したコスタリカでは、タランチュラがウヨウヨするジャングルの真っ只中に、セスナからパラシュートで飛び降り、そこからレースが始まったと聞く。
 今年の開催地はアラビア半島のオマーン。
 聞くところによると、今回初めて日本人だけのチームが参加するという。
「もちろん日本人チームをメインに撮影して欲しい。だが、トップを行くチームの撮影も頼むぞ! 日本人チームの活躍とレースの全体的な進行との両方で特集を組みたいんだ。まあ日本人チームがトップならばオマエも楽だけど、それはありえないだろうな」
 内坂は電話の向こうで笑った。
 そして付け加えた。
「同行するライターは古屋郷子。最近ウチでよく書いてもらっている女性だ。喜んでいいぞ。彼女結構可愛いから」
 今日は「ワイルド・アスリート・グラフィックス」の編集部で、その美人のライター古屋郷子を内坂から紹介される日だ。
「ワイルド・アスリート・グラフィックス」の編集部は、中目黒の山の手通り沿いにある。オレは東横線の中目黒の駅で電車を降り、山の手通りを国道246方面に向かって歩いた。この辺りは最近は洒落た飲食店が多くなり、多国籍なエスニック料理を食べさせる店が並んでいる。もっとも今の時間ではまだ閉まっているが。
「ワイルド・アスリート・グラフィックス」は、今回の「レイド・ゴロワーズ」や、ハワイの「アイアンマン・レース」、LAの「ウエスタン・ステーツ」など、自然の中で繰り広げられるレースや、アウトドア・スポーツなどを専門とした月刊誌で、発行部数は一般誌に比べて少ないものの、マニアの間では定評の雑誌である。
 その写真も文章もかなりハイレヴェルなものを掲載しており、オレも今回の仕事の依頼を、内心かなり喜んでいた。
 編集部に入って行くと、その他の雑誌の編集部のご他聞に漏れず、雑誌や企画書が乱雑に積み上げられたデスクの脇で、立ち話している者、そのデスクに足を乗せて電話している者、ライティング・テーブルでポジを選んでいる者など、かなり雑然とした雰囲気の中で、それぞれ仕事をこなしていた。一般の会社員からすれば、とても仕事をしているような雰囲気には見えないだろう。が、この手の編集部はだいたいこのような雰囲気なのだ。
 山の手通りのちょうど反対側の、奥の大きな窓を背に内坂のデスクがあり、内坂は夕暮れの逆光の中でこちらを向いて座っていた。年中日焼けしてそれでなくとも黒い顔が、逆光によってますます見づらくなっている。それでもオレの顔を認めると、その白い歯を口からこぼれさせた。
 内坂の前には、白いシャツにタン色のパンツを履いた女性が、背を向けて座っていた。
「おー健介! 来たか!」
 内坂の声に反応して、その女性がゆっくりと立ちあがり、こちらを振り向く。セミロングの髪はストレートで、触れなくてもかなり細くて柔らかい髪質なのが、逆光の光の中で判った。なるほど内坂の言う通り、多少幼さが残る黒目がちな可愛い目をしている。だが、少し長めの鼻と横に広がる大きな口は、その顔に頑固な印象を与えていた。そして特徴的なのが眉だった。男のように太い眉ながら、その毛質は髪と同じく繊細で流れるような弧を描き、目とのバランスが絶妙だった。スッピンかそれに近いメイク。
「えー彼が今回ご一緒する田島健介・・・それからこちらが・・・」と内坂が彼女を紹介しようとしたが、彼女が遮った。
「古屋です。はじめまして。よろしくお願いします」と手を差し出した。その一連の動作が、あまりにも素早く、しかも堂々としていたので、オレは一瞬気後れしたが、慌ててその手を握り「田島です」とボソっと呟いた。
「OK! それじゃあ早速本題に入ろう」
 内坂は彼女の横にある椅子をオレに勧め、自分も席に着いた。
「レースは12月5日から10日間。つまり14日には確実に終わる。二日前の3日にレースのブリーフィングとパーティーがあり、前日はスタート地点へ移動だ。だから二人には遅くとも2日にオマーンの首都、マスカットに入って欲しい。いいね・・・」
 内坂はそう言ってオレと彼女を両方交互に見つめる。
「この特集は1月25日売りで掲載される。年末進行で締切りは多少早まり20日。健介のほうの写真は問題ないな。どうですか古屋さん・・・20日の締切りで原稿のほうは・・・」
「まったく問題ないと思います。ノートブックを持っていきますので、現地や帰りの飛行機の中でも書けると思います。それにそういうレースのルポは興奮が冷めないうちに、一気に書き上げたいので・・・」
 お見事。簡潔にして要点はしっかり。
 確かに彼女は内坂の言うように可愛いルックスはしている。でもオレの苦手なタイプであることも確かだ。だがまあ、第一印象ではルックスが優先する。男ってそんなもんだろう? そこで定石通りにオレは彼女を誘った。
「じゃあ出発前に、一度食事でもしながらゆっくり打ち合わせをしたほうがいいですね・・・」
 彼女はオレの誘いに、魅力的な大きな笑顔を浮かべて答えた。
「それは必要ないでしょう。オマーンまでのフライトはかなり長いので、飛行機の中で十分に打ち合わせの時間を取れると思います」
 ほら、やっぱり・・・オレの苦手なタイプだ。



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