---連載小説「湖底のかがり火」第9回---
桐山は一瞬、抵抗を試みようとしたが、すでに輝海の首筋にはサ
ヴァイヴァルナイフが突きつけられており、相手のボスらしき人物
の放った言葉で、とりあえず彼らの指示に従った。
その男は髪を短く刈り込み、黒っぽいセーターに、黒のスラック
スを履いていたが、そのセーターの上からでも大胸筋の盛り上がり
が伺えた。半透明のグレーの眼鏡を掛けており、鷹揚のない話し方
をした。
「オマエたちを殺る気なら今ここでもヤル。だがオレが受けている
指示は、ただオマエたちを連れて来い、とだけ言われている。おと
なしくしていれば怪我はさせない」
その黒ずくめの男の言葉を裏付けるように、輝海の首筋にナイフ
を突きつけている男は、耳元を飛び回る煩い蚊を叩きつぶすように、
いとも簡単に人の命を奪いそうな凶暴な目つきをしていた。この男
は作業着のようなものを着ており、ナイフを握った手の爪に垢が溜
まっていた。
他のメンバーの顔を確認しようとした時に、頭からすっぽりと黒
い布を被され、後ろ手に縛られた。
その手際の良さから、こういう仕事に慣れている集団だと悟り、
桐山は背中から冷たい汗が落ちるのを感じた。
車の後部座席らしきところに押し込められ、すぐに車は出発した。
車内では誰も言葉を発する者はなく、すべてが綿密に計画された行
動だと云うことに気付かされた。
約30分くらい車は走ったのだろうか・・・時間を確認する事が不
可能なので正確には判断し難いが、輝海の自宅からさほど遠くない
場所であることには違いないようだ。
その場所は、どうやら今は使っていない鉄工所の倉庫らしき場所
で、工事現場でよく使っている裸電球が一灯だけ灯り、あたりは暗
く静まり返っていた。
桐山と輝海は並んで立っていたが、二人とも相変わらず手を後ろ
に縛られており、身動きが取れないでいた。
「テル・・・大丈夫か・・・」
「こんな状態で、気分は良くないことは確かだけど、今のところは
どこにも怪我はしていない・・・」
桐山は輝海の気丈な受け答えを聞いてほっとした。その声から、
怯えよりむしろ怒りが感じられる。
「勝手に話すな! 黙ってろ」
後ろから例の黒ずくめの男の声が聞こえた。
「すでに・・・」
今度は声が前方から聞こえた。
「ゆっといたと思うんだけんど、おめぇらぁ余計なこんに首をつっ
こんでいるらぁ。」
明らかに甲州弁の訛りがあり、その甲高い声色から初老の人物だ
と桐山は読んだが、こちらに向けて一灯だけ照らされた灯かりの後
ろ側に立っているので、ほとんどその人物を確認することはできな
い。が、小柄な人物であることは確かだ。
「おめえらぁみてえなカスがなんぼう動き回ったって、とてもじゃ
ねぇけんど手に負える問題じゃねぇしよー。うらーは痛くも痒くも
ねぇけんど、もういっけぇゆっといてやらぁー。」
そこで相手は言葉を切った。自分の存在をより大きく見せたいの
だろう。
「これ以上なにっか、ひっかきまわしちょ。」
桐山はその人物の芝居がかった言い回しが滑稽に感じ、いつもの
軽口を放った。
「痛くも痒くもなければ、そのまま放っておいたらどうなんだ」
言い終えない内に後ろから鈍器のようなもので、こめかみのあた
りを殴られた。
鈍い痛みが全身を走り、一瞬ふらついたがなんとか立っていられ
た。汗のようなモノがこめかみのあたりから頬を伝って流れ、舐め
てみると鉄分の味がした。
どうやら頭から出血したようである。
「威勢がいいのはわかるけんど、そんなもんなんにもなんねーわ。
その証拠におめぇらぁここに立ってるずらぁ。おめえらぁの処分な
んか簡単だぁーわ。」
そう言うと、光の向こう側でこちらに背を向けた。
それが合図なのか、また黒い布を被され、同じ車に押し込められ、
その場所を後にした。
「警察に言っても無駄だし、さっきも言ったように、オマエたちの
処分は簡単だ」
黒ずくめの男はそう言い残すと、そのまま車は走り去った。ナン
バープレートを確認しようとしたが、意図的に読み辛く汚されてお
り、まったく判らなかった。車種はかなり年式の古いセンチュリー
で、もう一台の車も同じように大型の乗用車であること以外、なん
の特徴も見出せなかった。
不思議と先ほどの場所で、声の甲高い小男に脅かされた時には、
その芝居がかった脅かしに、さほど恐怖は感じなかったが、黒ずく
めの男がまったく表情も変えないで「オマエたちの処分は簡単だ」
と言い残した、その言葉の実現性の高さに慄いた。
「ボス! 大丈夫ですか?」
開放されると輝海が駆け寄ってきた。
こめかみの傷はすでに固まって出血も止まっており、頭痛の方も
かなり和らいでいた。
「あー・・・安ワインを飲みすぎた翌日のような気分だが、そんな
にひどい気分じゃない・・・テルはどうだ?」
「私はまったく平気です! それよりここがどこか判りますか?」
輝海の自宅の前で拉致されたのだが、そこまで送り届けてくれる
ような親切な連中じゃなかったので、二人はどこかの山の中で車を
降ろされたのだった。
輝海は少し登り勾配になっている道を歩き出した。桐山はそれを
見て、反対側に向かって道を降り始めた。
すると輝海は50メートルほど行ったあたりから叫んだ。
「ボス! 判った! ちょっと来て見てください」
桐山はまだ走れるほど頭痛が回復していなかったので、心拍数が
いきなり上がらないように気をつけながら、輝海の方に小走りで近
づいて行った。
「ボス、ほら! この景色・・・」
桐山は輝海の指差す方向に目を移すと、そこから北麓湖周辺の街
のネオンが見渡せた。
「もう一年ほど前になるけど、この近くにロケハンに来たじゃない
ですか! 振り返ると富士がすぐ傍にあって、反対側は北麓湖が見
えるってところ・・・ボスは観光写真っぽくなり過ぎて使えないっ
て言っていたけど、私はヨット教室のチビッコたちを連れて、時々
ここに遊びに来てたんです」
桐山はあたりを見廻し記憶を辿った。
「あー・・・あそこか・・・」
そう言ってもう一度見廻してから呟いた。
「さて・・・どうするかな・・・テルの家までは歩いてたっぷりと
1時間はかかりそうだな・・・誰かに電話して迎えに来てもらうか
・・・」と言いながら、ポケットの携帯電話を探った。
すると輝海と視線が合った。
眉間に皺を寄せて、今桐山が言った言葉の意味を慎重に考えてい
る。
輝海は桐山のいいアイデアにはすぐにでも飛びつくが、このよう
に眉間に皺を寄せて桐山の顔を直視している時は、大抵の場合、そ
の意見に対して難色を示している時である。
「分かったよ・・・言ってみろよ」
桐山は輝海に意見を求めた。
「OK・・・宮下さんが亡くなって、我々は奥さんの幸恵さんと会っ
た・・・それから役場に忍び込んだ・・・そして脅迫メイルが入っ
て、その後、すぐに今回の拉致騒ぎ・・・」
桐山はこのところの自分たちの行動を振り返った。
「宮下さんの死に関して、我々が行動を起こしたのはそれだけです
よね・・・」と輝海。
「あー・・・確かにそうだ。それで?」
「それだけの行動だけで、こんな状況に陥るってことは、彼らは絶
えず我々の行動を監視している恐れがあるって、考えることはでき
ませんか?」
桐山はここ数日のことを、もう一度、頭の中で整理してみた。
「確かに・・・それは言えるな・・・」
そう言うと桐山は気味悪そうに辺りを見廻した。
それを察知したように輝海が苦笑した。
「いくらなんでも今は大丈夫だとは思うけど、誰かがここへ迎えに
来ると、その人たちに迷惑がかかると思うけど・・・」
それにしても自分はもうすでに40歳を超えている。それなのに、
どうして己の年齢の半分くらいの輝海が、このように物事を熟考で
きるのだろう。
桐山は少しばかり自分の軽率な考えを恥じながら答えた。
「うん・・・確かにそうだ・・・しようがない、歩くか・・・」
「ボスは大丈夫ですか?」
「なに言ってんだ! これくらいの傷・・・こう云う状態でも体力
ではテルには負けないよ」
「ハイハイ分かりました。じゃあ早速行きましょう!」
輝海は呆れた笑顔を浮かべ歩き出した。
「テルはそもそもいつもオレのことをジジイ扱いし過ぎるけどな・
・・オレは・・・」
そう言いながら桐山が後に続いた。
<- つづく ->
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