---連載小説「湖底のかがり火」第7回---
 
 よく晴れた朝で、この季節にしてはとても暖かかった。
 この時期になると朝晩は氷点下を下回るが、今日のようによく晴
れた日には急激に気温が上昇し、お昼近くになるとかなり温度も上
がる。
 KKアドファームのオフィスには灯油を燃料とする温風ヒーターが
設置してあったが、朝一番に1時間ほど稼動させただけで、今では
スイッチは切られていた。
 今日も相変わらず桐山の好みのカントリーソングが小さなボリュ
ウムで流れていた。今日の桐山のチョイスはルチンダ・ウイリアム
スで、少しハスキーな甘い歌声が柔らかな午後の日差しの中に融け
込んでいた。
 宮下幸恵は桐山の指示通り、今朝早く、自宅にあるパソコンから
すべてのファイルをCD-Rに焼き、それをKKアドファームに届けて
いた。
 輝海は自分のノートブックを桐山のデスクトップの横で開き、桐
山が役場のパソコンからコピーしてきた内容との照らし合わせ作業
をしていた。
 互いのパソコン上に「宮下」というフォルダを作り、その中に項
目別にCD-Rからの内容をコピーし、その内容を詳細表示にし、更新
日時順に並べ替えて一覧にした。
 こうすれば幸恵が届けた自宅のパソコンの内容と、桐山が役場か
ら持ち帰ったものの相違が一目で判るようになる。すると二つの項
目の違いが見つかった。つまり役場のパソコンに、自宅には保存さ
れていないフォルダが発見されたのだ。
 そのフォルダは「富士山関連」と「北麓湖関連」と云う名前が付
けられており、それぞれのフォルダを開くと、さらにいろいろなフ
ァイルが数個見つかった。
 それらのファイルはマイクロソフト社のワードとエクセル、二つ
のアプリケーションを使って制作されており、文章だけのものもあ
れば、表やグラフを用いたものもあった。
 輝海と桐山の二人はそれらの内容を細かく検討した。
「なにか事件と結びつく可能性のあるものは・・・」
 桐山はパソコンの画面に目を凝らしながら呟く。
 輝海も細かくファイルを閲覧した。
「ボス・・・この内容・・・ほらボスが以前話していたじゃないで
すか、富士山の噴火に関する情報・・・」
「ウン? どれどれ・・・」
 桐山はキャスターの付いた椅子をスライドさせ、輝海のノートブ
ックの画面を覗き込んだ。
 そのファイルは「富士山ハザードマップ作成要綱」と名付けられ、
昨年の10月から頻繁に起っている低周波地震に関する観測結果が
グラフに纏められ、それに対する専門家の意見、過去における富士
山の噴火の歴史などが細かく報告されていた。
 全国20箇所ですでに作成されているハザードマップの一覧も添
えられており、その内容をよく読むと、富士山においてもハザード
マップ作成の急務の必然性と、その結果がもたらす甚大な被害予防
の可能性の高さを如実に物語っていた。
「ウーン・・・」と桐山は唸り、椅子を下げて腕組をして、もう一
度パソコンの画面を眺めた。
「この町の行政機関が、地元の観光業への悪影響を配慮して、ハザ
ードマップ作成に逡巡していることは確かなことだ。しかしそれは
誰でも知っていることで、宮下さんがそのことを特別に説いても、
そのことが直接、今回の事件と結びつくとは思えないがなあ・・・」
 桐山はそう言うともう一度「ウーン・・・」と唸った。
 その「富士山ハザードマップ作成要綱」には、地元の主な観光業
とその事業主の名前、それにその事業主の地元での公的な立場まで
詳しく綴ってあった。
 桐山はそれらにざっと目を通したが、特に事件に関連のある物は
見当たらなかった。
 だがその事業主リストを見ていて、心のどこかでなにかが引っ掛
かったが、それがなんであるか判らないまま、そのファイルを閉じ
た。
 桐山は自分のパソコンの前に戻り、他のファイルを詳しく調べた。
「北麓湖関連」のファイルには、主に湖における漁業組合の収支関
連の資料や、その活動報告などが保存されていた。
 今現在、北麓湖に於いて漁業で生計を立てている者は一人もいな
い。
 以前はワカサギがかなり釣れたが、それでも長野県の諏訪湖のよ
うに、それを出荷してビジネスになるほどの漁獲高ではなかった。
 しかし、ここ数年、バス・フィッシングが盛んになり、地元漁協
もバスの放流を積極的に行い、その結果、北麓湖ではちょっとした
バス・ブームとなり、その遊漁券の販売によりかなりの利潤を上げ
ていた。
 一時期は年間6千万円ほどまでに落ち込んだ漁協の予算が、昨年
のそれを見ると、3億2千万円ほどまでに跳ね上がっていた。
「オイ! テル。事件には関係ないと思うけど、これをちょっと見
ろよ。バス・フィッシングだけでこんなにも儲かるんだなあ・・・」
 輝海は椅子をスライドさせ、桐山のパソコンを覗き込んだ。
「ウワー! すごい! 確か・・・遊漁券って一日1,500円くらい
のものでしょ・・・それだけでこんな金額になるんですか・・・ふ
ー・・・私もヨットなんかしていないで、今からでも釣りの腕を磨
こうかなあ」
「まあ今の時代、ヨットじゃあ食っていけないからなあ・・・でも
オレはどうもあのバス・フィッシングをする連中のことが好きにな
れないんだよなあ・・・」と桐山。
「どうしてですか?」
「だいたいだなあ・・・釣った魚はすべて食べるべきじゃないのか
? それをキャッチ・アンド・リリースだなんて奇麗事言ってさあ
・・・オレは以前、雑誌の取材でカリフォルニアに住むルアー・フ
ィッシングの達人に会ったことがあるんだ。彼に言わせると、本当
の意味でキャッチ・アンド・リリースでフィッシングを楽しむので
あれば、決して魚を水の中から出してはいけない、と言っていたよ」
「つまり自分の手元に魚を引き寄せた時点で、ゲーム・フィッシン
グの楽しみは完結するわけだから、その後は水の中で静かに、慎重
に魚を逃がしてあげなければならないって・・・」
「それをここの湖に来ている連中と来たら、小さなバスを釣り上げ
るだけで大喜びをして友だちに見せびらかし、釣った証拠にタバコ
の横に置いて記念撮影をして、その後は釣り上げた自分の姿を写真
に撮ってもらい、さんざん魚を引きずり廻した挙句に湖に帰すんだ。
あれじゃあ放されてもすぐに死ぬよ」
「そのカリフォルニアの達人に言わせると、ゲームの最中に魚はす
でに相当の力を使い果たしているから、本当に優しく帰してあげな
くちゃならないそうだ」
「それに・・・」
 桐山はそこで一息ついて、両足を近くにあった丸型のスツールに
乗せた。
「それに奴らは湖畔にゴミを置いて行く。絡まったテグス、ルアー、
それに自分たちの食べたモノ・・・地元の連中も、奴らが来ると儲
かるからなにも言わないで掃除をしているけど、あーいうのを見て
いると、オレは釣りなんかしたいとは思わないな」
 輝海が湖でヨットに乗っていても、湖畔のゴミがいつも気になっ
ている。それに一度はヨットを着岸させたときに、テグスが足に絡
まったこともある。
 いつもヨットを教えている子ども達にも、ルアーの針に充分に気
をつけるように注意もしている。
 どうして自分たちの遊ぶ場所をもう少し綺麗にしようと思わない
のだろう? 幼稚園児だって自分たちの遊んだ砂場はきれいに後片
付けをするのに・・・
「それにバス・ボートの連中って、私のディンギーのすぐ鼻先をか
すめて湖を走るんですよ! エンジン付きのボートは帆船を避けて
航行しなければならないって、海上法規に定められているのに・・
・あの連中と来たらまったく・・・」と輝海は愚痴た。
「おいおい! 今バス・フィッシングに商売代えをしようと言い出
だしたのはテルだぞ!」
「冗談ですよ! 私もあの連中は好きになれない。なんか湖を自分
のモノみたいに思っているところがあって・・・」
「まあまあそんなにカリカリするなって・・・それより、そろそろ
なにか飲み物を作ってくれないか」
 桐山にそう言われて時計を見ると、すでに時計の針は5時を過ぎ
ていた。
 窓の外を覗くとあたりはすっかりと暗くなり、東の低い空で月が
大きく輝いている。
 冬至の頃は5時には暗くなり、朝も7時近くになるまで明るくな
らない。朝のジョギングが困難になるので、KKアドファームでは冬
時間を採用して、9時の始業となる。それでも終業時間は5時には
変わりない。5時には桐山が酒を飲み始めるからだ。が、撮影本番
になると時には8時くらいまで仕事をすることもある。が、それは
夏季に限ったことだ。
「さて私もメールをチェックして帰ろうかな・・・」
 桐山のリクエストに従って、ジェームソンのソーダ割りを作り、
その後、パソコンを終了させる前に、いつものように輝海はメール
をチェックした。
 何件かプライヴェートなメールと、KKアドファームでHPの制作
をしている顧客からのメールが届いていた。
その中に差出人不明のメールが一件届いており、添付ファイルもな
かったので、ウイルスの可能性も低いと思い、輝海はそのメールを
開いてみた。
 そしてその内容を読んで、一瞬、息を呑んだ。
「ボ・・・ボス! このメールを!」
 桐山は輝海の顔色を見ながら、怪訝な表情でパソコンを覗き込ん
だ。
 そこには短くこう書かれていた。
「いろいろと嗅ぎ廻るとお前たちも死ぬ」

 
<- つづく ->
 
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