---連載小説「湖底のかがり火」第4回---
 
 富士山は1300年ほど前から約400年間、噴火を繰り返した活動
期があった。その頃に、かつては「古セの海」という広大な湖に、
富士山の東肩に位置する長尾山の噴火による溶岩が流れ出し、「西
湖」、「精進湖」、「本栖湖」の3つの湖を出現させた。このこと
は、それぞれの湖の南側が黒々とした溶岩で形成されていることか
らも、容易に窺い知れることができる。
 その後富士山は、約400年間、休止期に入ったが、それから再び
約200年間の活動期が続き、1707年の「宝永噴火」での大爆発を
最後に、現在に至るまで約300年間の休止期が続いている。
 文部省の諮問機関である科学技術・学術審議会の測地学分科会で
は、このところ頻繁に発生する低周波地震と富士山の噴火について
の関連性を、あらゆる方法で調査することを検討していた。
 300年近くも噴火がなく、噴火についての大掛かりな調査と発表
は、地元の観光業にも少なからず影響を及ぼすとの配慮から、富士
山噴火に関する研究が遅れていたが、昨年より活発になった低周波
地震の影響で、関連各機関が本格的に動き出したのだった。
 それらの調査によると、富士山山頂直下、やや北東よりの深さ約
15キロ付近で、昨年の10月から12月中旬にかけて、従来より圧倒
的な数で低周波地震が観測され、このところ沈静化しているものの、
昨年9月以前に比較して、いまだ発生回数はかなり多い状態にある。
 この低周波地震がそのまま富士山の噴火と結びつく根拠はどこに
もなかったが、10年前に起きた雲仙・普賢岳、それに昨年に発生
した洞爺湖・有珠山の火山噴火などを考慮に入れると、富士山が3
00年もの長き眠りから覚めつつあるとの見識は、関係者の間で確
実に広まっていた。
 1990年代後半に入って、日本各地では火山による被害を想定し
て、全国約20箇所で「ハザードマップ」が作成されており、日本
を代表する山である富士山周辺でも、「ハザードマップ」作成の急
務の必然性に迫らていたが、観光地で成り立っている地元の経済事
情を考慮して、その作成に反対する声も多く聞かれた。
 輝海や桐山も、その作成の是非を巡って、地元の役場や観光業者
の間で、賛否両論の討論がなされていることを知っていた。
「このあたりは800メートル以上の標高があるせいで、かつては農
作物がまったくと言っていいほど採れなかったんだよ」
 桐山はそう言って、シナモンの香りがするハーヴティを啜った。
 桐山はコーヒーを飲まない。
 輝海がその理由を尋ねると、日頃からカフェインを摂取している
と運動能力が落ちるから、と桐山は答えた。
「つまりカフェインを常時摂取していると、血管が拡大して血液の
流れがよくなる。それはそれで結構なことだが、しかしそのカフェ
インも3日以上摂取し続けると、からだにカフェインに対する耐性
ができてしまい、その効果がなくなってしまうんだよ。もちろん眠
気に対する効果もね・・・するとからだはそれ以上のカフェインを
求めるようになる。これがカフェイン中毒の始まりだ」
 これは桐山から教わったテクニックだが、マラソンのレース前に
カフェインを摂取すると、通常より120パーセントほど運動能力が
高まる。これが桐山の指摘するように、常時摂取していると、その
効果がなくなってしまうのだ。
「地元の人たちは樹皮を剥き、その裏側を柔らかく煮て食べた、と
云うエピソードが残るくらいに、貧しい寒村だったんだ」
 桐山はハーヴティのカップを自分のデスクに置き、話を続けた。
「だから昭和47年に中央高速が開通し、観光業が一気に盛り上がり
を見せて以来、地元の生活環境は180度と言っていいほど変わって
しまったんだ」
 たしかに湖北山系を北に越えると、そこでは葡萄や桃が栽培され、
そのあたりの農家は古くから潤っている。富士の南側の静岡県では
温暖な気候の元、海産物や農作物もよく採れる。ところがこの富士
北麓の一帯だけが、古来より厳しい自然環境を強いられてきたので
ある。
 観光によって地元の町や村の経済が潤ったのなら、どうしてもそ
れにしがみつきたくなるのが人情と云うものだろう。しかも、その
観光でさえ、冬季になるとぱったりと途絶えてしまう。12月、1月
、2月、3月の約4ヶ月間は、観光に関連する宿泊施設や飲食店は、
店を閉じてしまうところもあった。
「8ヶ月間で1年分を稼げ」と云うのが、地元観光業に従事する者
たちの合言葉であった。
「と云うわけで、オレたちに対するビジネスもかなりシビアになっ
てきている。宮下さんが担当の時は、イメージ戦略がメインで、い
い写真とキャッチコピーがあれば、それでだいたいOKだったんだ
が、今度の担当者はあれもこれもと、うるさいよ。まったく・・・」
 桐山はそう言って大きくため息をついた。
 宮下の死後、新たに観光課の課長に就任したのは、渡辺という男
(この姓も地元出身者に多い)で、広告業界のことをまったく理解
しておらず、広告制作業者を出入りの下請け業者と混同し、料金の
値引きを執拗に迫った。おまけに輝海の書くコピーに対して細かく
指示を出し、挙句の果てにはスーパーマーケットのチラシのような
宣伝文句を書けと言う。
「あの男は最低ですね。歯並びが悪くてタバコのヤニで汚れている
し、口臭もひどい。それに若い人に媚びるように語尾を上げる話し
方・・・あー思い出しただけでも鳥肌が立つ。あーあ・・・本当に
宮下さんはセンスが良かったなあ・・・」
 輝海もため息をついた。
 10月中旬を過ぎており、山々では紅葉が始まっていた。これ以
上撮影開始が遅れると、コピーの方はまだしも、写真に季節感が色
濃く出てしまい、一年を通してのパンフレットには不向きになって
しまう。
 輝海は桐山の焦る気持ちもよく理解できた。
「ボス! とりあえず撮影に行きましょう! クリエイティヴな感
性を持たないあー云うタイプの男は、言葉で説明するより、現物を
見せないと、出来上がりの想像がつかないんですよ! こっちがこ
うです! って強引に押したら、きっと納得しますよ。まだ就任し
たばかりだから、なにかと自分の力を誇示しているだけだから、き
っと・・・」
 輝海は撮影準備をしながら桐山に言った。
「それもそうだな・・・テル、なかなか鋭いところを突いているじ
ゃないか!」
 桐山がデスクから立ち上がって、準備に加わった。
「まあこの仕事にも随分と慣れてきましたから・・・」
 輝海はそう言って笑った。
 
 二人は西湖と精進湖を結ぶ樹海の中を通る「東海自然歩道」の中
を歩いていた。
 この「東海自然歩道」は東京の高尾山にある「明治の森記念公園」
と、大阪の箕面にある「明治の森記念公園」を結ぶ、1300キロ以
上にも及ぶ自然歩道で、富士北麓に広がるこの地域の区間は、その
モデルコースとして、素晴らしい景観が続いていた。
 一般的には湖や富士山の姿がよく見える山々の中のトレイルが知
られていたが、この樹海の中も、秋には素晴らしい景観が隠されて
いた。
 夏には鬱蒼とした葉が生い茂り、樹海の中のトレイルは薄暗くジ
メジメとしていたが、秋になると多くの木々は葉を落とし、上空か
らの木漏れ日が深遠なる森の中で、様々な光のシルエットを描き出
し、神秘的で不思議な空間を作り出していた。
 世間一般的には「自殺の名所」という負のイメージを持つ樹海を、
素晴らしい原生林として世に知らしめたい、と云うのが、桐山の願
いでもあった。
「溶岩と云うのは保水性が高いから、このような大木がすくすくと
育って行くんだ」
 桐山は大きな溶岩をその根で抱くように立つ巨木を、真下から煽
るようにしてシャッターを切った。
「テル! もう少し木肌に光が当たるようにレフの角度を変えてく
れ」
 桐山の指示に従って輝海はレフ板を器用に曲げて、巧く陽が木肌
に当たるように角度を調節した。
 コピーライターとして「KKアド・ファーム」に就職した輝海だ
が、二人だけの小さな会社なので、このようにカメラマンである桐
山のアシスタントも務めることも度々ある。が、輝海はそのことに
不満は感じなかった。このようにアシスタントをこなしていると、
撮影の技術も学ぶことが出来るし、撮影現場に出かけていくことに
よって、よりコピー原稿の表現方法の幅が広がった。出来上がった
写真を見るだけでは、それに相応しいコピーを書くことは難しい。
 今回の観光課のプロジェクトでは、早朝の静かな湖面に映る富士
山のカットがメインで使われることになっており、その写真はすで
に撮影済みである。そしてサブカットとして、桐山は樹海の写真を
使いたがったのだが、観光課の渡辺の出した提案は、若い女性がラ
ベンダー畑を背景にアイスクリームを舐めている、と云うような、
一昔前のシチュエーションで、桐山も輝海もそのことに難色を示し
ていた。
 桐山がアイスクリームを舐めている女の子を被写体にシャッター
を切っている、と云う、まったく相応しくない姿も見ものだったが、
それ以上に、輝海はそこに書くコピーがまったく思い浮かばなかっ
た。
 二人とも、どうしてもこの樹海の風景で押し切りたかった。
 
 樹海での撮影の後、馴染みのバイクショップで桐山を降ろし、
(桐山はそこのバイクショップで売りに出されている、ハーレーの
パンヘッドの中古を狙っていた)撮影機材をオフィスに持ち帰ると、
留守番電話の伝言があることを報せる赤いランプが点滅していた。
 輝海は点滅するボタンを押した。
 メッセージは宮下幸恵からであった。
「お報せしたいことがあるので、お電話をいただけないでしょうか」
 メッセージの内容はそれだけだった。
 輝海はすぐに桐山の携帯に連絡を入れ、幸恵のメッセージを伝え
た。
 それから撮影機材を整理していると、しばらくして桐山から電話
が入った。
「テル・・・悪いけどそのまま事務所に残ってくれないか、今から
すぐに戻るよ。それと今夜は少し遅くなるかもしれないから、その
つもりでいてくれ」
 そう言うと桐山の電話は切れた。
 その声色から、桐山がかなり興奮していることを輝海は感じた。

 
<- つづく ->
 
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