---連載小説「湖底のかがり火」第3回---
富士山の北側に位置する北麓湖の周辺には、いくつかの町と村が
混在し、そこに暮らす人々の規模は、大きな町で1万人強、小さな
村ではその一割程度の人口だった。
どの町でも村でも、その地域の特色を現す「姓」が色濃く残って
おり、中でも「小佐野」「梶原」「三浦」「流石」といった「姓」
が圧倒的な数を占め、他所から来た者はその「姓」だけで、すぐに
判別がついた。
もちろん「桐山」も「上坂」も、地元の「姓」ではない。
「宮下」という「姓」もこの地域には多く、宮下良彦は地元で細々
と酒屋を営む家の三男としてこの地に生まれた。
上の二人の兄弟は太平洋戦争で戦死したが、良彦が入隊して間も
なく終戦を迎え、良彦は無傷で除隊し、生まれ故郷に戻って来た。
故郷に戻った良彦は、海軍で覚えたボイラーの知識を生かし、戦
後すぐに再開された地元の観光ホテルのボイラー係として職を得て、
そこで働き始めたが、その後、富士山が国際的な観光地として脚光
を浴びるようになり、そのホテルの観光案内も兼務するようになっ
た。
観光案内の主な業務は、モーターボートに客を乗せて北麓湖を案
内するか、富士山の登山ガイドか、いずれかが主となったが、生来、
口下手な良彦は、モーターボートで湖面を颯爽と走り、観光客に媚
を売るような会話が必要な仕事には馴染まず、登山ガイドとして山
にその身を置くことを選んだ。当然のことながら、辛い思いをして
登山を選ぶより、湖面を走り周っているほうが楽なので、5人居た
ホテルの案内係のうち、登山のガイドを選んだのは良彦一人だけで、
日に日にガイドの仕事が忙しくなり、多いときには月の3分の2以
上の日数をガイド業に費やした。
登山ガイドと云っても、多くの観光客は登山の経験などほとんど
なく、客の荷物まで背負って富士の頂上を目指すのは、非情な体力
と忍耐を強いられることになった。今と違って一合目からの登山で
ある。30キロ以上の荷物を背負っての登山は、並大抵の苦労ではな
い。
それでも日本を代表する富士の頂きに立った時の、達成感に包ま
れた客の喜ぶ顔を見るだけで、良彦は自分に与えられた職業に喜び
を覚えた。
こうして幾度となく富士の頂きに立った良彦の評判はあっという
間に地元に広まり、海外からの登山客のガイドを任されることも多
くなった。
良彦と一緒に富士の頂きに立った海外からの観光客は、帰国後、
お礼の手紙を良彦に送る者も多く、その一つ一つの手紙に、良彦は
辞書を片手に返事を書いた。
かつて敵対国として戦場で戦い、その結果として2人の肉親を失
った良彦にとって、欧米人との親密な交流には少なからず抵抗感が
あった。が、己が案内する日本を象徴する山を見せることで、互い
にその罪が軽減されていくような、そんな気持ちが良彦のわだかま
りを融かせた。
やがてホテルのフロント係をしていた女性と結婚し、3人の子ど
もに恵まれた良彦は、その後もずっと登山ガイドとして富士山に登
り続け、3人の子どもを育てあげた。
その3人の子どもの長男が宮下正克で、八王子の大学を卒業後に、
父がずっと交流を続けていたサンフランシスコの知人を頼って渡米
したのであった。
正克は幼い時から父に連れられて富士山や、その周辺の山々に登
っていたので、渡米後もアメリカの大自然に慣れ親しみ、シアトル
郊外のマウントレーニエや、オレゴンのマウントフッドにもよく出
かけた。
もちろん自分の暮らす、サンフランシスコ周辺のレイクタホやヨ
セミテにも頻繁に出かけ、それらの自然の中で、自分の生まれ故郷
の自然に思いを馳せ、帰国後、すぐに町役場の仕事に就いたのだっ
た。
正克は仕事を離れても、地元の自然環境保全に力を注ぎ、そのボ
ランティア活動を通じて良き伴侶と巡り合い、幸せな家庭を築いた。
葬儀を終えてすでに1週間になるが、宮下幸恵は喪に服している
かのように、黒のニットセーターに、黒のジーンズを履いていた。
全身を黒い服に包まれて、その小柄なからだがより一層小さく映っ
た。
桐山、輝海、そして幸恵の3人は、かつて正克の父が勤めていた
観光ホテルのラウンジに居た。
「今回のことは本当に残念で…まったくなんと言っていいのか…」
桐山が珍しく神妙な面持ちで、小声で呟く。
幸恵が桐山の顔を見ないで、小さく頷く。
宮下夫妻には子どもが居なかった。その理由を桐山も宮下も訊ね
なかった。
世の中にはいろいろな理由で、子どもの居ない夫婦がいる。子ど
もができないのか、それとも意識的に作らないのか、それは第3者
には判断し難いことだが、都会と違ってこの辺りのような保守的な
土地柄で、子どもが居ないと云う事実は、なんらかの複雑な事情が
あるに違いない、と輝海は思っていた。
そんな輝海の思いを見透かしたように、幸恵が呟いた。
「私たち…努力はしたんです…」
桐山がちらっと輝海を見たが、すぐにその視線を幸恵に戻した。
輝海もその視線に軽く頷き、そのまま二人とも黙っていた。
「原因は私です。受胎してもすぐに流れてしまって…」
幸恵の目には涙が浮かびあがったが、それは目の淵でかろうじて
止まり、幸恵の目を美しく輝かせた。
「あの人は…気にすることはない…いつまでも新婚気分でいいじゃ
ないかって…いつも言ってくれて…」
幸恵はテーブルの上にあった、ストローが入っていた袋を細い指
で捻った。
「あの人は本当にいろいろな所に連れていってくれました…それこ
そ毎週末のように…」
幸恵は捻ったストローの袋を、今度は広げて皺を伸ばした。
その様子を眺めながら、輝海は自分で「どうしてこんな時に、そ
ういうことに気を取られるのだろう…」と思った。
幸恵はその手を止め、二人を交互に見て微笑んだ。
「お二人のこともよく話してくれました…いいコンビだって…若い
輝海さんがよく桐山さんについて行ってるって…」
二人はそれを聞いて苦笑した。
幸恵が俯いて、ストローの袋の上に涙がこぼれた。
「どんなことをしてでも、あの人の子供を産んでおけば良かった…」
いつもより空気が3倍ほど重く感じられ、二人は返す言葉が見つ
からなかった。
長く重苦しい沈黙が続いたが、突然、幸恵が顔を上げ、厳しい表
情で言った。
「でも私…あの人が私だけを置いて行ってしまうなんて…どうして
も信じられません!」
それまでの沈黙のせいか、その言葉がラウンジの中で大きく響い
たような気がした。
桐山も同様に感じたのだろう。身を乗り出し、幸恵に囁くような
声で言った。
「ボクたち二人も、今回のことは自殺だとは信じていません。それ
にどうも妙だ…すぐに警察が気付くような不自然な点も、誰もなに
も言ってこないし、みんながこの事件のことをすでに忘れてしまっ
ているようで…」
桐山が続けようとしたが、幸恵が遮った。
「忘れることなんかできません!」
幸恵の厳しい声を抑えるように、桐山は両手でテーブルの上を抑
えるしぐさをしながら言った。
「判っています。それは充分に…ボクたちだってそうです。でも…
ここは小さな町だし、いろんなところですぐに噂が立つ…だからボ
クたちも慎重に行動をしようと思っているんです」
そこまで言って、桐山は水を一口飲んで、幸恵に向かって頷いた。
幸恵も了解のしるしに頷き返した。
「そこでお願いですが…宮下さんの私物などが役場などから返って
きていると思うんですが、どんな小さなことでもいいから、気がつ
いたことがあったらすぐに我々のオフィスに電話を下さい。例えば
我々に見せたほうがいいと思われるものとか、なんでも結構です」
幸恵はなにかを思い浮かべている様子で、視線を中空に浮かせた。
「判りました。あの人の私物はすべて戻ってきています。まだまっ
たく手をつけていないけど…なにか気がついたことがあればすぐに
連絡します」
幸恵は気丈にそう言うと、唇を固く結んだ。
綺麗な人だ…輝海はそう思うと、宮下の死がますます悲しく感じ
られた。
それからまたしばらく沈黙が流れたが、さきほどよりかは幾分、
空気の重量と密度が減ったように思われた。
人はどんな状況の中でも、なんらかの目標を見つけると不思議と
力が湧いてくるものだ。
それは幼くして愛する両親を失った輝海が一番よく知っている。
あの時…自分も挫折しかけた。なにもかもがどうでもよくなった。
だが…全日本学生スナイプ級のヨットレースが目前に控えており、
チームメイトにも迷惑をかけたくなかったし、なによりも、中途半
端で物事を放り出すことを父が一番嫌っていた。
がむしゃらになってヨットに打ち込んだことで、今の自分がある
のだ。
「輝海さん…確か、ヨットがご趣味だとか…」
いきなりの言葉で輝海は戸惑った。
「ええ…まあ…趣味というか、幼い頃から続けているので、もう生
活の一部のようになっていますが…」と輝海。
すると幸恵は子どもっぽい笑顔で言った。
「今度…いつか乗せてくださいね…」
その言葉に、輝海と桐山は顔を見合わせた。
「あーそれがいいなあ! テル、是非ヨットに!」
桐山が勢いこむ。
「もうどうしてこの人はこうなのかしら…本当に筋肉で物事を考え
ているみたい…女心はそんな単純じゃありません!」
輝海は声に出して言いたかったが、そういうことを桐山に言って
も無駄なことは知っていたので、幸恵の方に向かって言った。
「ええ是非…いつでも言ってください」
桐山が幸恵をジョギングに誘うのではないか? と一瞬用心した
が、さすがの桐山も今回は場をわきまえているようだった。
<- つづく ->
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