---連載小説「湖底のかがり火」第2回---
 
「KKアド・ファーム」のオフィスは、北麓湖から南側に位置して
おり、車で10分ほどの距離にあったが、オフィスの窓からは北麓
湖とその向こうに連なる湖北山系の山々の美しい風景を望むことが
できた。
「KKアド・ファーム」の「KK」は、もちろん「桐山恵介」のイ
ニシャルで、決して「桐山&上坂」のイニシャルではなかった。
 オフィスには3台のデスクトップ、それと2台のノートブックの
パソコンがあり、センターテーブルの上にはスライド・フィルムを
いつでもチェックできるように、大きなライティング・ビューアー
が設置してあった。
 ソニーのヴァイオのデスクトップが置いてある桐山の大きなデス
クの周りは、本や雑誌、それにいろいろな郵便物が雑然と積み上げ
られており、いくら輝海が桐山の許可(勝手に整理するとひどく桐
山は怒った)を取ってきちんと片付けても、2、3日するとすぐに
元通り、乱雑なモノで溢れかえってしまった。
 センターテーブルを挟んで反対側にある輝海のデスクはいつもす
っきりと整理整頓されており、A4版サイズの、やはりヴァイオのノ
ートブック以外には、メモホルダーとボールペンくらいしか載って
いなかった。
 もっとも輝海は原稿を書く際に、桐山のデスクからいろいろな種
類の辞典を頻繁に借り出し、それを参考にコピーを書いていたので、
桐山のデスク上の乱雑さを咎める気にはなれなかった。
 桐山は読書家で、オフィスのいたるところに本があった。
 様々なジャンルの小説、写真集、(もちろんアンセール・アダム
スのモノが多数)料理のレシピ集、地図、ナショナル・ジオグラフ
ィックの第一号からのバックナンバーなど。それに漢和辞典、英和
・和英辞典、ことわざ辞典、人名辞典などの辞典の数々。中には「
人体解剖学」や「ボディビルディング・バイブル」なんてものもあ
り、桐山のトレーニング・マニアぶりを窺わせた。
 その乱雑なデスクの上に桐山は両足を組んで乗せ、リクライニン
グ・チェアに深々と座り、腕組みをして目を閉じていた。居眠りし
ているように見えるが、考え事をするときの桐山のいつものポーズ
だ。
「昨夜の宮下さんの様子からは自殺するなんて、まったく考えられ
ないことだよな・・・」
 桐山は少しかすれ気味の声で呟いた。が、輝海はなにも答えなか
った。
 桐山は輝海に答えを求めているのではない。声に出して頭の中を
整理しているのだ。これもいつものことで、いろいろなアイデアを
口にする。中には腹を抱えて笑い出すような奇抜なことも言い出し
たりするが、こうして徐々にアイデアが淘汰され、形作り、ひとつ
のスタイルを持つことを輝海は知っていた。そしてその段階になっ
て、ようやくそれについて輝海に意見を請うのだ。
「もうすぐに死ぬと覚悟している人間が、あんなに快活に食べ、飲
み、そして会話を楽しむなんて、まったく理解できない・・・」
 桐山のかすれた声がオフィスに響いた。
 CDプレイヤーからは桐山の好みであるナンシー・グリフィスの可
憐な声が静かに流れていた。輝海はどちらかと云うとカントリーは
あまり好きじゃなかったが、桐山があまりにも頻繁に聴くので、こ
の子どもっぽい声の持ち主であるナンシー・グリフィスの名前をす
っかりと覚えてしまった。それにナンシー・グリフィスの声は、父
親がかつて好きだったドリー・パートンの歌声に似ていた。
 ケヴィン・コスナーとホイットニー・ヒューストンの競演で話題
になった映画「ボディガード」を観て、ホイットニーの歌う「アイ
ム・オールウエイ・ラブ・ユウ」に夢中になり、輝海が毎日のよう
にそれを聴いていたら、父が「ホイットニーのカバーもいいけど、
ドリーのオリジナルもいいよ」とオリジナル曲を聴かせてくれた。
ドリーのそれは、ホイットニーのように力強くは歌い上げていない
が、切々と片思いの女心を歌っていて、まったく違った趣のある曲
だった。
 輝海は今でもドリー・パートンと、母親が好きだったシャーデー
の歌声を聴くと涙が出そうになる。夕食の時間にシャーデーのCDを
母がかけると、父は食事中なのに立ち上がって、曲に合わせてサッ
クスを吹く真似をしてみたり、母の手を取ってチークダンスを踊り
だしたりした。
「もう食事中なのに!」といつも母は怒ったが、父に抱かれて踊る
母はいつも幸せそうだった。
 
「それにあのロープの結び目・・・テル・・・オマエ気が付いたか
?」
 輝海は自分の名前を呼ばれて我にかえった。
「なんだ・・・聞いていなかったのか」と言いながら桐山は立ち上
がり、今度はセンターテーブルの上に腰掛けた。そしてライティン
グ・ビューアーの横の、マッキントッシュのデスクトップの上に肘
をついて、夏目漱石のように側頭部を支えた。
 もうまったく勝手なんだから・・・今まで独り事をブツブツ言っ
ていたと思ったら急に・・・それにいつも思うけど、まったくこの
人はどんな躾をされているの? 私だったら、机の上に足を乗せた
り、腰掛けたりしたら、母にこっぴどく叱られたのに・・・ 
「えっ? 結び目がなにか・・・」
 輝海が自信なげに答える
「まったくオマエは・・・」
 
 その日の午前中、輝海と桐山は北麓湖署に呼び出され、「重要参
考人」ということで別々の部屋で長時間に渡って事情聴取を受けた。
 当初、警察は宮下の自殺に二人がなんらかの形で関わっているの
ではないか、との疑惑を抱いていたようだが、別々に行われた事情
聴取の結果、完璧なアリバイと状況証拠が固まり、二人に対する疑
惑は完全に晴れたのだった。
 その事情聴取の後に、二人揃って証拠物件として自殺に使用され
たロープの確認をさせられたのだ。
 ロープは直径15ミリほどの太さのもので、元々は白かったのだろ
うが、今では古びて、灰色の薄汚れた色をしていた。
 輝海は漠然と、こんな細いロープによって人は死ぬのか・・・な
どと感じた。
「念のために聞くが、このロープを見たことは?」と担当の警察官
が、桐山と輝海を交互に見た。
 輝海はそのロープを見ただけで気分が悪くなり、弱々しく首を横
に振ったが、桐山の方はそのロープをよく見ようと近寄った。
「なにか心当たりでも?」
 警察官が桐山ににじり寄った。
 桐山は首を横に振って「いや・・・どこにでもあるロープだよ。
たしかクレモナ・・・って言ったっけ・・・」
 そう言うと、警察官を見てもう一度、首を横に振った。
 
「結び目って、宮下さんの首にかかっていたと云うロープの?」と
輝海が桐山を見上げた。
 トレーニングの成果が功を奏しているのか、桐山は実際の年齢よ
りかなり若く見えた。今年で43歳なのに、どう見ても35歳くらい
にしか見えない。が、さすがに目尻の笑い皺は深く、その部分だけ
は実際の年齢を感じさせた。
「そう、あのロープ・・・オレも一瞬でよく確認出来なかったが、
あのロープはボーライン・ノットで結ばれていた。いわゆる漁師が
よく使う{もやい結び}と云うやつだ」
 桐山はそう言うと、雑然と積み上げられている本の中から一冊の
本を取り出した。
「どうしてすぐに目的の本が見つかるの? あんなに散らかってい
て・・・」
 輝海は口には出さなかったが、そのことがいつも不思議だった。
「これはロープの結び方の本だ。このページを見てくれ。ここに解
説が書いてあるだろう。ほら・・・」
 桐山は輝海のデスクの上に、その開いたページを差し出した。そ
こにはボーライン・ノットの結び方の図解と、その結び目の解説が
書かれていた。
 それによると「ボーライン・ノット」とは、ロープワークの中で
ももっとも頻繁に使われるモノで、その結び目が自在に動いて輪を
締め付けるものと、結び目が不動のものと、2種類の結び方がある、
と記してあった。
「もちろん体重をかけたときに、首に巻きついたロープが締まって
いくように結ばれていたんだが、そのロープの方向が逆だったんだ
よ」
「えっ? 逆って・・・」
「ほら良く見てみろよ・・・結ばれた輪が締まっていくボーライン
はこの位置からロープが出てくるだろう」と言って、桐山は図解の
4番目の図を指し示した。
「ところが宮下さんの首にかかっていたロープは、結び目の反対方
向から出て来ていたんだ」
 そう言いながら桐山は図解の3番目を指差した。
「ほらここ! この部分が逆だとロープは締まらないんだよ」
 輝海は桐山の顔を見上げようとしたが、その顔があまりにも至近
距離にあったので、思わずまたロープの図解を見る羽目になった。
 桐山も同じように感じたのだろうか、自分のデスクに戻り、また
両足をデスクの上に乗せ、今度はおなかの上に両手をおいて、輝海
の表情を窺った。
「と云うことは、誰かがロープを締めたってこと?」
 今度は腕を頭の後ろで組んで、桐山は大きく頷いた。
 こういう風にすると、上腕二頭筋が大きく盛り上がり、桐山の腕
の逞しさを誇示したが、本人もそのことを熟知しており、女性が広
告担当であるケースに、桐山がよく使う手であることを、輝海は入
社当初から気付いていた。
「警察はそのことに気が付いているかな・・・」
「まあ警察も馬鹿じゃないから、司法解剖をして、例のロープを専
門家に見せれば、早晩それに気付くとは思うな・・・」
 そう言って桐山は天井を見上げた。
 そして突然、机から足を下ろして椅子に座り直し、哀しそうな表
情を浮かべた。
「オレは宮下さんのこと・・・本当にいい人だと思ってた・・・こ
のあたりじゃ珍しくリベラルな考えの持ち主だし、あーいう人がい
れば、観光だけじゃなくて、このあたりはもっと良くなると思う」
 自然は美しいが、そこに住む人は閉鎖的で保守的、それに排他的
な人物が多い、と東京からやってきた桐山が、いつも口癖のように
言っている。
「豊かな自然が身近にありすぎるから、その良さに誰も気付いてい
ない」とも。
 それはやはり輝海が幼い時に東京からこの地にやってきた、父の
口癖でもあった。
「オレは絶対に探しだしてみせる!」
 その声に桐山の方を見ると、さきほどとは打って変わって、輝海
が今まで見たこともないほど、険しい表情をしていた。
「宮下さんを殺したヤツを・・・」

 
<- つづく ->
 
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