---連載小説「湖底のかがり火」第10回---
 
 英国を代表するオフロードカー・メーカー「ランドローヴァー」
社では、「レンジローヴァー」、「ディスカヴァリー」、「ディフ
ェンダー」、そして同社の中ではもっともコンパクトな「フリーラ
ンダー」の4車種を販売しているが、その中でも「ディフェンダー
」だけは特殊な存在で、日本では一時期「ディフェンダー90」の
みが正規で輸入販売されていた。
'83年の発売以来、ずっとモデルチェンジをしていないこの車は、
限定500台のみの国内販売で、(後からその人気に乗じて100台追
加輸入販売した経緯もあったが・・・)その500台は、日本の根強
い「ディフェンダー」ファンに、あっという間に売れてしまった。
 英国史上、もっとも著名な宰相ウィンストン・チャーチルが、こ
の「ディフェンダー」の直系とも言えるべき「シリーズ1」をこよ
なく愛したことから、日本でのその人気も頷けるのだが、限定でし
か日本で販売出来ないのは、この「ディフェンダー」が日本に於い
て、様々な安全基準を充たす事ができないことにも起因していた。
 と言うのも、この「ディフェンダー」には、今となっては日本車
には常識となっているABSやエアバッグと云う安全装置が搭載さ
れていないばかりか、自然環境に悪影響を与える排気ガスの、悪の
権化とも言うべきディーゼル・エンジンを搭載したタイプが多く、
特に「ディフェンダー90」より一回り大型の「ディフェンダー11
0」は、かつてはV8のガソリン仕様も製造されていたが、現在では
本国でもディーゼルのみとなってしまった。
 もっともヨーロッパでは日本とは逆に、ディーゼル・エンジンの
方が自然環境に適合すると考えられており、(日本とは軽油の成分
に多少の違いがある)その販売シェアも拡大しつつあった。
 そのような事情があって、「ディフェンダー110」は並行輸入の
みの販売となっており、その数も僅か200台を上回る程度であった。
ちなみにこの「90」と「110」と云うのは、ホイルベースの長さ
をインチ数で顕しており、「110」は10人定員乗車が可能な、日
本ではかなり大型に分類されるタイプのオフロードカーと言えた。
 桐山の愛車はこの「ディフェンダー110」で、輝海の自宅の前で
拉致された際に、キーを付けたまま車を放置していたが、無事、盗
難に遭うこともなくそこに停車していた。
 桐山はこのアルミボディの希少車を、とても大事に乗っていたの
で、そっと胸を撫で下ろした。
 北麓湖周辺ではこのところめざましく観光開発が進んでいるが、
東京などの都市部と比較すれば、まだまだ長閑なものである。
「ボス・・・もうこんな時間だけど、どっちみち今夜は眠れそうも
ないので、少し寄って行って下さい」と輝海は桐山を誘った。
 すでに明け方の4時を回っており、桐山とて今から眠る気にはな
れなかった。それに長時間歩き続けたので、体が芯から冷え切って
いた。
「あー・・・そうさせてもらうよ・・・」
 桐山はそう言いながら、大きくため息をついた。
 輝海と共に、玄関のドアを開けて入って行くと、部屋の中が柔か
い暖気に包まれ、桐山は思わず鼻から大きく息を吸い込んだ。
「ウーン・・・薪の燃えるいい香りだ・・・」
 居間の奥の方に黒い大きな薪ストーヴが設置されており、輝海が
そのストーヴのガラス扉を開けると、熾きになっていた炭が、新鮮
な空気を得て小さく赤く輝いた。
 輝海はそこに慎重に細めの薪を数本入れ、換気孔を操作して空気
を送り込んだ。
 ガラス扉の中で火は瞬く間に大きくなり、今ではバチバチと大き
な音を立てながら、炎が新たなる薪に襲い掛かっていた。
 輝海はその炎の勢いを確認してから、さらに太くて大きな薪を3
本追加して、ガラス扉を閉じた。
 桐山はその様子をじっと見つめていたが、その視線に応えるよう
に輝海が言った。
「このストーヴは良くできていて、空気孔を閉めて最小限に送風を
絞ると、こうやってまる1日、中で薪が燻っているんです。で、今
見たとおり、すぐに火が熾るのですごくラク・・・それに部屋の中
も適度に暖かいし・・・さあ、掛けて下さい。今、お茶を淹れます
から」
 輝海は薪ストーヴの横に設置された3人がけの大きなソファを手
で示して、キッチンに歩いて行き、ガス栓をひねってお湯を沸かし
始めた。
 そして戻って来て、ソファに座っていた桐山の隣に腰掛け、足を
オットマンに乗せた。さらにソファに置いてあった小さなクッショ
ンを膝に抱きかかえながら言った。
「父がその薪ストーヴのこととっても気に入っていて、夕食の後に
その椅子に深くからだを沈めてお酒を飲んでいた・・・」
 そう言って、輝海はストーヴの前に置かれた大きな一人掛けのソ
ファを指し示した。
 その椅子はとても座り心地が良さそうで、暖かいストーヴの前で
酒を飲むのは、さぞかし快適だろうと桐山は想像した。が、その想
像は急に感じたこめかみあたりの痛みによって中断された。
 桐山は顔をしかめ、痛みを感じるあたりに手をやった。
 その様子に気付いた輝海は、大きく身を乗り出して桐山の頭の上
に顔を近づけた。
「まだ痛みますか? もう出血は完全に止まっているけど・・・」
と言いながら傷口付近にそっと手を当てた。  
「ちょっと待っていてください」と輝海は言って席を離れ、小さな
箱を持って戻って来た。
「とりあえず消毒をしましょう・・・」
 輝海は箱の中から消毒液を取り出し、それをガーゼに浸して傷口
を拭き始める。
 すると急に痛みが襲った。
「イテッ! ちょっとテル!・・・もう少し優しくしてくれよ」と
桐山は愚痴る。
「スミマセン・・・でももう少しだけ我慢して・・・」と言いなが
ら輝海は消毒作業を続けた。
「ウーン・・・縫うほどの傷じゃないけど、ちょうど髪の生え際の
ところが2センチほど切れている・・・それに少し腫れているし・
・・」
 輝海はそう言いながら素早くそこに軟膏を塗りこみ、バンテージ
を貼り付けた。そしてそのままキッチンに行くと冷蔵庫から氷を取
り出し、それをビニール袋に入れ、タオルで包んだ。そして桐山の
隣に戻ってくると、それを差し出した。
「少し冷やした方がいいと思う」
 一連の手際の良さにと桐山が唸った。
「随分と怪我の治療に慣れているみたいだな・・・」
「そうですね・・・ヨットをやっていると生傷が絶えないし、子ど
も達も小さな傷は日常茶飯事・・・それに生前、父が・・・やっぱ
り怪我が絶えなかったんです。あの人も外で遊ぶことが大好きな人
だったから」
 仕事場では両親の話をあまりしない輝海だったが、こうやって彼
女の自宅で寛いでいると、彼女の父親の話題が多く出ることに桐山
が気付いた。
 おそらくこの家の中では、彼女は未だに愛する家族と共にいるの
だろう。
 それにここに拡がる空間は、桐山にとっても非常に居心地が良か
った。きっと輝海の両親はその暮らしを心の底から愛していたに違
いない。
 輝海と共にソファに腰掛け、そっと彼女の横顔を覗くと、ストー
ヴの炎に紅く照らされ、その表情がいつものより幼く感じられた。
 お湯が沸いて、ハーヴティを淹れた輝海は、それを居間に運びな
がら桐山に訊ねた。
「少しブランデーでも垂らしますか?」
「うーんそれはいいなあ・・・でも今日は辞めとこう、傷が痛みそ
うだし、眠くなってしまう」
 桐山は残念そうに断った。
 ソファに二人並んで腰掛け、お茶を一口飲むと、輝海が言い出し
た。
「で、これからどうします?」
 桐山もお茶を一口啜り、しばらくストーヴの中で揺れる炎を眺め
ていたが、静かに答えた。
「どうすると言っても、続けるしかないんだろうな・・・」
「でも・・・これ以上続けると、今日よりもっと危険なことになる
んじゃ・・・」
 輝海はそこで言葉を切り、桐山と同じようにストーヴを見つめた。
「ボスは・・・あー云う状況になっても怖くないんですか?」
 桐山はやはりストーヴを見つめたまま話し始めた。
「いや・・・正直言ってすごく怖い。特にあの黒づくめの男・・・
ヤツには尋常じゃない恐怖を感じる・・・明らかにあの手のプロだ。
だけど・・・脅かしに負けてこのまま引き下がったら、オレは一生、
なにかに負い目を感じて生きていかなければならない・・・そのこ
とこそ、オレが一番怖いことだ」
 重い沈黙が流れた。
 輝海が少し言いにくそうに呟いた。
「でも・・・今回のことを知っている人は私達の周りに少ないし、
今辞めてしまっても、誰もボスのことを責めたりしないと思う。も
ちろん私だって、こういう状況に巻き込まれたらすごく怖いし・・
・」
「あーそうだな・・・オレが今すべてを辞めても、それほど大きな
影響はないかもしれない。いやむしろ、周囲の人にだってこれ以上
迷惑をかけることもないだろう・・・だが・・・みんながそれを許
しても、オレ自身が許せないんだ・・・つまらない男の意地かもし
れない・・・しかし、もしもこの世にもう一人のオレがいたら、オ
レはきっとそいつを許さないだろう」
 輝海は桐山の横顔を覗き見た。
 その表情は今の言葉とは裏腹にとても穏やかで、自分自身に言い
聞かせているようにも感じ取れた。
 桐山が話しを続けた。
「おそらく・・・今日の甲州弁がきつい小男は、本当の意味での黒
幕ではないだろう・・・ヤツは明らかに脅し専門のチンピラだ。今
度の事件はもっと違った人物が陰でうごめいている気がする・・・
そいつが本気で出てくると、もっと恐ろしいことになるかもしれな
い」
 桐山はそこで言葉を切って、一口お茶を飲んだ。
「テルはもうこれ以上、このことに関らない方がいい・・・今まで
怖い思いをさせて悪かったな・・・」
 再び沈黙が訪れた。
 輝海は想像してみた。
 もし自分の父が生きていて、今の桐山と同じような状況に陥った
らどのように対処するだろう? そしてあの従順で優しい母なら、
いったいなんて言うだろう?
「ボス・・・」
 輝海は桐山の目をまっすぐに見つめて言った。
「一緒に犯人を見つけて、あの甲州弁の小男の化けの皮を剥がして
やりましょう!」

 
<- つづく ->
 
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