---連載小説「湖底のかがり火」第1回---
ジブにはちょうどいい風が入っていた。
メインシートをいっぱいに引くと、船は少し前方にヒールした。
もう一度、ジブとメインを見上げる。
両方のセールには最適な状態で風が入り、風見を見ても、ちょう
ど45度の角度で風下を指していた。
右手の方に芝生が敷き詰められた公園が見え、家族連れが何組か
遊んでいるのが遠めに見えた。
反対方向には湖の真ん中にある浮き島が見え、その浮き島は、ま
るで木の生えてしまった鯨のようだった。
風がやや強くなりヒールの角度が増したが、よりハイクを大きく
し、そのヒールを抑えた。
完璧なセーリングだった。
後ろから吹いてくる風は心地よく、夕陽を受けて、湖面もきらき
らと輝いていた。
が、しばらくすると、突然風が強くなり、ヒールを抑えられなく
なってきた。慌ててメインシートを放そうとしたが、握っているは
ずのメインシートがどこかに行ってしまって見当たらない。
船は前方にどんどんヒールして、今では目の前に湖面が迫ってき
ており、冷たい水に投げ出されるのを覚悟した。
その状態のまま、頭の中でけたたましくベルが鳴ったが、そのベ
ルがどこから聞こえてくるのか、まったく判らない。
ヨットは不安定な状態で静止し、湖面は目前で凍りついたように
止まっている。
いったいどうなっているの?
「ジリジリン! ジリジリン!」
相変わらずベルは鳴り止まないが、冷たい湖に投げ出されるはず
の身が、暖かくて心地のいいベッドに横たわっていた。
そしていつものように、一日の最初に顔を合わせる目覚し時計が、
6時を指してアラームを発していた。
手を伸ばしてアラームのスイッチを止め、カーテンを開けてみた。
すでに太陽は山の上の方まで上り、暑い一日を予感させた。
「走んなきゃ…」
輝海は舌打ちを一つして、大きく伸びをし、天井を見上げた。そ
の天井は木目や木の節が様々な文様を描いており、輝海はその文様
を動物の顔に見立てるのが好きだった。
そしていつものように鹿の顔に似た木目に向かって「おはよう!」
と元気に挨拶をして、ベッドから勢いよく飛び出し、ジョギングの
準備を始めた。
毎朝、6時から1時間、湖の周りをジョギングする。
そして7時過ぎに帰ってきてシャワー。
シャワーの後に、シリアルとプロティンジュースだけの簡単な朝
食を取り、7時45分には家を出ないと、8時の会社の始業には間に
合わない。
輝海の勤める会社は広告制作を主な業務としており、社長兼カメ
ラマン兼コピーライターの桐山恵介は、朝の出勤時間に厳しかった。
「一日のスタートの時間を守れないヤツは、自己管理のできないヤ
ツだ。と云うことは、自分の時間をクリエイトできないヤツと云う
ことで、すべてにおいて・・・」と延々に自分のポリシーを繰り広
げる。
しかも、朝のジョギングを強制して、その詳細を毎日輝海に訊ね
る。
「今日はどこのコースを何分で走った?」
そしてそれを輝海が報告すると、次は決まって自分の朝のジョギ
ング・コースの説明を始め、聞きもしないのに、そのタイムを発表
して、最後には決まって「まあ今は80パーセントの仕上がりだから、
もう少し記録は伸びると思う」という言葉で締めくくる。
輝海は走ることが大嫌いだったが、この会社に就職する際に、毎
朝のジョギングが条件だったのだ。
はじめはきっと3ヶ月もしないうちに、ジョギングも会社も辞め
ることになるだろうと思っていたが、すでにどちらも2年近く続い
ており、自分でも驚いたことに、昨年の暮れには初めてフルマラソ
ンを走った。
「オレの知り合いで広告会社をやっているヤツがいてなあ・・・そ
いつがフットワークのいい若い子を探しているんだよ・・・どうだ
会ってみるか?」
高校の時の担任が、卒業間際の輝海に、桐山のことを持ち出した
のは、ちょうど輝海が就職のために東京に行こうかと悩んでいる最
中のことだった。
輝海はできることなら、地元を離れたくなかった。
ここの自然が大好きだったし、幼い時から続けているヨットから
離れてしまう暮らしには耐えることができなかった。
だが、広告関係の仕事に就き、将来、コピーライターを目指して
いた輝海には、地元の会社はまったく食指が動かなかった。
地元にも広告制作会社はあるにはある。が、そのどれもがセンス
が悪く、素人の輝海の目から見ても、クリエイティヴな仕事とは思
えなかった。
高校の担任のオファーは、そんな輝海にとって、とても魅力的に
思えたのだった。
「桐山はずっと東京で第一線で活躍していたカメラマンだったが、
なにかの理由でこっちに来ることになったんだ。そこで自分で広告
会社を興し、カメラマン兼コピーライターをやっているんだ。さす
がに東京で仕事をしていただけあって、カメラの腕もコピーの腕も
いいぞ! 最近では地元のレストランのホームページの仕事も数多
く手がけているしな・・・」
高校の担任はそこで少し困った表情を浮かべた。
「ただ・・・桐山は少し変わったところがあるんだよ・・・」
輝海はそこで身を乗り出した。
「変わったところって・・・」
「それがなあ・・・からだを鍛えるのを生き甲斐みたいに思ってい
るらしく、身の回りの誰でも、それに引き込みたがるんだよ・・・」
輝海はそれを聞いて一瞬躊躇したが、聞くところによると桐山の
年齢はすでに40を超えている。18歳になったばかりの輝海にすれ
ばジイサンのような年齢である。そんなに心配することもないだろ
う・・・が、これが輝海の大きな誤算だった。
桐山は毎朝20キロのジョギングを日課としており、昼休みには会
社に置いてあるフリーウエイトのマシンで、ウエイト・トレーニン
グを1時間ほどこなした。週末には3時間ほど山を愛犬と駆け回り、
フリークライミングを始めとする様々なアウトドア・スポーツを趣
味としている。
「オレは筋肉で撮影するアウトドア・フォトグラファーだ!」と言
うのが、桐山の口癖だった。
「あの偉大なアンセール・アダムスだって、すごい体力の持ち主だ
ったんだ。その証拠にヨセミテの観光地に行っても、アダムスが撮
影した場所なんて、どこにも見あたらない。彼は車で行くことので
きないような山の中を歩き回って、美しい被写体をモノにしたんだ
!」と、この口癖は、決まってこのアンセール・アダムス話で結ば
れる。
まあ桐山の写真とアンセール・アダムスの写真には、天と地のほ
どの差があったが、確かに桐山の切り取る景色は、他の写真家の追
随を許さなかった。
この腕があれば、十分に東京で通じるはずなのに・・・と輝海は
思ったが、東京を離れた理由を聞くな! と高校の担任から釘を刺
されていたので、その話題には触れないことにした。
今日は確か地元の観光局の、パンフレットの制作の打ち合わせが
入っていた。
昨年から、桐山は輝海にコピーを書くことをある程度任せていた。
(もっともその文章は桐山によって厳しく校正されたが)、
今回のパンフレットは、地元だけでなく、東京やその他の地域の旅
行会社にも広く配布されるモノだけに、輝海としても力が入った。
輝海は家を飛び出すと、ホンダの250ccのオフロードバイクに跨
り、勢い良くキックを踏み込んだ。
「仕上がりを期待していますよ!」
観光課の課長である宮下は、柔和な笑顔を輝海と桐山に向けた。
「120パーセント、期待に添えますよ! な! テル!」
自信家の桐山が宮下と輝海を交互に見て言う。
「どうです…この後いっぱいやりませんか? 湖畔になかなかイケ
ル中華料理屋があるんです。今回の仕事以外にもいろいろとお話が
したいし…」
観光課の宮下に誘われて、桐山と輝海は夕食を共にすることにし
た。
宮下はもともとは地元出身だが、大学の4年間はこの地を離れて、
八王子で学生生活を送った。そして卒業後、「遊学」と称してサン
フランシスコの南に位置する小さな町フレズノで、1年間だけアダ
ルト・スクールに通った経験がある。
桐山も仕事の関係でよくカリフォルニアに行っていたので、この
二人はそれを共通点に話が合った。
職業としての桐山の腕もさることながら、宮下がこれまでにも多
くの仕事を桐山に発注したのは、そのあたりの事情も含まれている
のだろう。地元でこのような話題で、話し相手を探すのは難しい。
輝海にしても、自分のあまり知らない世界を詳しく知る、二人の
会話を聞いているのが好きだった。
中学1年の夏休みに、両親に連れられてサンディエゴを旅したの
が、輝海の覚えている唯一の渡米経験だった。
幼い頃、両親はよくいろいろなところに連れていってくれた。そ
れは残されたアルバムを見ればよく判る。ところがそのサンディエ
ゴの旅を最後に、両親は海難事故で亡くなり、その後はまったく海
外に行っていない。
その夜の宴席は楽しく時間が過ぎ去った。
桐山と宮下はアメリカでキャンプをした話題でおおいに盛り上が
り、宮下がレイクタホでカヌーに乗り、チンしてしまった話には、
桐山も輝海も腹を抱えて笑ってしまった。
宮下は環境保護の観点からも、自分の今現在置かれているポジシ
ョンに誇りを持っているらしく、端々に仕事に対する熱い思いを感
じ取ることができた。
宮下の勧める通り、そこの中華料理店はかなりいい味を出してお
り、輝海も少し紹興酒を飲み過ぎたようで、朝のジョギングがいつ
もより辛かった。
だから会社に出勤した途端、北麓湖署から電話があり、未明に北
麓湖大橋の欄干で、宮下が首を吊った状態で死んでいるのが発見さ
れたと聞いたときは、まだ自分が酔っているかもしれない…と錯覚
したほどだった。
<- つづく ->
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