これまで29年間のレース出場経験の中で、足が攣って走れなくなったことが3度ある。
まずはロードレースに出場し始めた25歳の頃、多摩川を走る20キロのレースの途中、折り返しを過ぎて11キロ地点で足が攣った。1月の寒い日のレースで、残りの約9キロをずっと歩いた。歩くのは辛くなかったが、寒さがホントに堪えた。
二回目は静岡県の掛川で開催されたフルマラソンで、30キロまではとても好調で、このまま行けば新記録が出るかもしれないと調子に乗って飛ばしていたら、32キロ地点で足が攣った。残りの10キロをなんとか早足で歩いたが、この時は気温も暖かく、ただ単に自分の不甲斐なさを呪った。
三回目は初めて「チャレンジ富士五湖」の72キロの部に挑戦した時だ。この時も最初は好調だった。本栖湖の約40キロの折り返し地点で4時間半。いつものフルマラソンの記録を鑑みれば、極めて好調なタイムだった。が、それが良くないことが、後から分かった。もう少しスローペースで走ればよかったのだ。60キロ、ちょうど自宅前を通過した辺りで足が攣った。この時も残りの12キロを早足で歩いたが、やはり悔しさが残った。
レース以外でも、長い山の縦走などに行くと、時々、足が攣る。それは歩いている時であったり、歩き終え、夕食の準備をしている時もある。どうやら足が攣ることが癖になっているみたいだ。
理由は二つ考えられる。
一つ目は電解質のバランスだ。ボクは汗かきである。呆れるほど汗をかく。当然、水分も大量に摂取する。その結果、電解質のバランスが崩れる。2つ目はストレッチ。若い時から苦手だ。朝起きていきなり走り始める。周囲が見ていて苦笑するほど、いきなり走り始める。そして走った後もストレッチをしない。若い時なら誤魔化せたかもしれないが、歳も歳である。もう誤魔化せないのは分かっている。
もちろん前日の食事等も影響するだろう。今回みたいに僻地に来て、普段、レース前に口にするようなモノが、ひとつも口に出来なかったということも影響しているかもしれない。
今回はなにしろ早かった。ノースループのチェックポイント2を過ぎた辺り、距離にして25キロほどの地点で足が攣った。が、日本を出る時に攣りに効く漢方薬を処方してもらい、それを飲んだら、攣りはどこかに消えてそのまま走り続けた。
サウスループの50キロの地点で少し違和感はあったが、そのまま走り続けた。サウスループからスタート地点に戻る箇所では弘樹から「もう少しスピードを落として!」と注意されるくらいに走ることが出来た。
スタート地点の60キロ地点では、先回りした弘樹が椅子を二脚用意してくれ、「トウキチさん、カホさん、ここに座って!」と言って椅子を勧めてくれ、コーラなどの冷たい飲物、ブドウやバナナなどを準備してくれた。
その時すでにゴールしていたパットが近づいて来て「最高のコーチだな!」とボクの肩を叩いた。まったくだ。「エル・ドラゴン」にここまでイタレリツクセリでは申し訳ない。
残り20キロ。最初のチェックポイントまで行って帰ってきたらレースは終わりだ。
ところが...ウリケの村外れ、約63キロの地点で再び足が攣る。ハムストリングからフクラハギに掛けて、もう一歩も歩けないほど。弘樹が念入りにマッサージしてれる。それから「トウキチさんはあまり好きじゃないと思うけど」と言って、持っていたパワージェルを飲ませてくれた。
ボクは極力、サプリメントを摂取しないことにしている。それは普段の生活でもレース中でも同様だ。その訳はいつかまた違う機会に話したいと思うが、それまでの10時間は水とエイドに置いてあるオレンジやグレープフルーツ、それにスポーツドリンクだけで済ませて来た。だが弘樹が見かねてパワージェルを差し出した。
マッサージが効いたのかジェルが効いたのか、攣りは少しは収まり、なんとか小走りに走れるようになった。それに心配していた膝の痛みがほとんどないことに驚いた。
その時、それまで後方を僅かに遅れて走っていたユカが我々に追い付いた。ほんの少し、彼女は我々と共に居たが、弘樹に「ユカさん、さあ行って、行って!」と檄を飛ばされ、先を急いだ。
ユカが先に行って暫くすると、今度は左足のワラーチの鼻緒が切れた。実はこれで今日は二回目だ。朝、ノースループの20キロにも充たない地点で右足の鼻緒が切れたのだ。
カホに手伝って貰って、朝と同様に即席で補修する。予備の細挽き紐は持っているが、なんとか今使っている真田紐で補修できるみたいだ。
ワラーチを作り始めた頃、3ミリの細挽き紐を使っていた。その頃には100キロから150キロ走ると、良く鼻緒が切れた。それから細挽き紐から真田紐に変え、さらにシュードクターで補強するようになって、走っている時に鼻緒が切れることなんてなかった。このコッパーキャニオンの路面が厳しいのか。それとも他の理由が考えられるのか。が、レース後半になってくると、地元のララムリの人々の鼻緒も切れ、そこかしこでワラーチを補修しているララムリの選手を見かけた。これはもうどうすることも出来ないのだ。
ワラーチの補修が終わって再び走り始める。
「辛いって言ったって、レースはたった一日で終わるじゃないですか! レイドで12日間も歩き続けたことを考えれば、比にならないくらいにラクじゃないですか!」と弘樹が慰めの言葉を掛けてくる。さらに「泣いても笑っても、あと15キロ。二時間もしないうちにレースは終わります。このキャニオンの自然をたっぷりと味わって走って下さい!」
その言葉に促されて見上げると、渓谷の底には夕闇が近づいて来ているが、渓谷の頂上あたりには西日の残照が当たり、赤銅色にキラキラと岩肌を輝かせている。空の青さが濃くなり、その赤銅色とのコントラストが美しい。まさにコッパー・キャニオンである。
弘樹の言う通りだ。こんな美しい夕暮れの渓谷の中を走る機会なんて、そんなにあるものではない。
チェックポイント4の折返地点の近くで、再びユカとすれ違う。彼女も一人ぼっちで頑張っている。こっちも負けてはいられない。
山から降りてきて、残り5キロの地点で、それまでダラダラと歩いていた二人のララムリの選手が、追い越しざまに再び走り始め、我々に負けじと付いて来た。
弘樹がその様子を見て、「嬉しいじゃないですか! 彼らを引っ張ってあげましょう!」と言った。その言葉に益々チカラを得て、快調に走り続ける。時計を見るとキロ5分ほどで走っている。隣で走っているカホも、ララムリの選手も、まったくスピードを緩める気配もない。
だがこの時、ココロのどこかで引っ掛かるモノがあった。しかしそれを考えるほどの余裕はない。なにしろ、ゴールはもうすぐに見えているのだ。
「バモス! バモス! アニモ! アニモ!」
このレース中に何度も耳にした言葉を、沿道にいる人々が叫ぶ。
「バモス!」は「行け!」という意味で、「アニモ」は「頑張れ!」という意味である。
最後はララムリの二人とカホの4人でゴールした。
ゴールした瞬間、カバーヨの奥様であるマリアさんからハグを受け、続いてパットから完走のメダルを掛けて貰う。そしてさらにパットの友人のテイラーから完走のベルトバックルを受け取る。
一緒に旅を続けたテレンス、ルッカ、リディアの3人もゴールで待ち構えていた。
それぞれにハグを交わした。
振り返ってカホともハグを交わし、その横に立っていた弘樹ともハグを交わした。その瞬間になって、ココロに引っ掛っていたことに気付いた。
この12時間半にも及ぶ長いレースの間、ボクはカホと弘樹の3人でゴールする瞬間を何度も何度も頭の中で思い描いていたのだ。ところがゴール寸前で追い付いてきたララムリの選手たちとのランによって、ずっと思い描いていたイメージは別のイメージに置き換えられてしまったのだ。
その原因のすべての責任は、自分のココロの余裕のなさである。その証拠に、弘樹にこれだけの量の写真を撮ってもらいながら、彼のことを少しも撮影してあげられなかった。もっとココロに余裕があれば、弘樹に一言「最後は一緒にゴールしよう!」と声を掛けられたはずである。
またひとつ旅の果てに、己の魂の一部を置いて行くことになった。
これにもいつかは決着を付けなければならないだろう。
2010年にワラーチに出会い、その後、自家製のワラーチ作りに心血を注ぎ、2011年にはその自家製ワラーチでフルマラソンを走った。そして2012年にはワラーチで18日間掛けて河口湖から神戸まで走り、今回はワラーチの故郷で80キロの距離を走った。
これでひとつの区切りは出来たのだと思う。
見上げると、ペーパームーンが渓谷の夜空に輝いていた。
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