先週末、待望の「レ・ミゼラブル」を鑑賞した。
実はミュージカルがあまり好きじゃないので、この映画の鑑賞も迷っていたが、1997年公開、リーアム・ニーソン主演、ビレ・アウグスト監督による「レ・ミゼラブル」を鑑賞したら、とても面白かったので、最新作のミュージカル版が観たくなった。それにヒュー・ジャックマン主演、アン・ハサウェイ、ラッセル・クロウとキャストも豪華である。予告編を観て、益々、盛り上がる。
が、残念ながら作品全体としてはイマイチだった。
すでに観た人の感想を聞いたり読んだりしていたので、その期待感が多すぎたかもしれないが、リーアム・ニーソン版がよくできていただけに、ちょっと期待はずれだった。
なにが期待はずれだったのか?
それを説明する前に、映画になにを求めるのか? ということを考えてみたいと思う。
もちろん多くの人は映画に感動を求めるだろう。ストリー展開、時代背景、セリフ、演技、音楽、特撮など、あらゆる部分に於いて映画は我々に感動を与えてくれる。
で、その感動が物語の複雑に絡む糸から得るのが好きなのか? あるいはひとつのシーンが好きなのか? によっても好みが違ってくるだろう。
具体的に言えば、リーアム・ニーソン主演の「レ・ミゼラブル」はヴィクトル・ユーゴーの原作に沿った仕上がりで、(とは言っても、西洋的キリスト教価値観の押し付けであることには違いないのだが)かつては「悪」であった主人公が、人の愛によって「善」に目覚めていく心理的描写を細かく描いている。さらには主人公を執拗に追い詰めるジャベール警部の心理描写が最後の最後まで巧みだ。
だが最新のミュージカル版では、その辺りの心理描写が粗い。いや「粗い」という表現は語弊があるかもしれない。ミュージカルそのものが、歌に演じる者の心理を込めているので、観る側はそこから細かい心理を汲み取らなければならないと思う。
そういう意味ではアン・ハサウェイが歌う「夢破れて」のシーンでは感動し、落涙した。が、そこまでである。期待のアマンダ・セイフライドは消化不良で、ヒュー・ジャックマンに於いては、どの歌にも感動できなかった。それにそもそも、セリフのすべてを歌に乗せる演出はどうなのか?
冒頭でミュージカルがあまり好きじゃないと言った。が、冷静に思い返せば、「オペラ座の怪人」「ムーラン・ルージュ」「ドリームガール」と、結構、好きなミュージカルも多い。が、それらはすべてのセリフを歌に被せてはなかった。その演出で最初からシラケてしまったのは事実である。
最新作の監督を務めたのは「英国王のスピーチ」でオスカーを獲得したトム・フーパーだが、今回の作品に関してはその辺りの演出はどうなのか?
まあ、そうは言っても、感動は様々である。
スポーツのように、前後の背景がなくても一瞬で大きな感動に包まれる瞬間もあれば、何日も一冊の本を読み続け、最後の一行で涙する感動もある。
ところで今回のミュージカル版「レ・ミゼラブル」は我が次男も一緒に鑑賞した。先日、彼が成人式に出席するために帰郷した際に、一緒にリーアム・ニーソン版を鑑賞して、「それじゃあミュージカルの最新版も観に行こう」ということになり、次男はわざわざ東京から戻ってきて一緒に鑑賞したのであった。
で、我が次男もだいたいボクと同じような感想みたいだったが、映画の帰り道、甲府から河口湖に戻る峠道で、次男のお勧めの夜景スポットに連れて行ってくれた。
親と映画を一緒に観るためにわざわざ東京から帰郷し、その映画の帰りに、自分のお気に入りの場所に連れて行ってくれる。ある意味、映画そのものより、次男のその行為に感動を覚えたのだが、今回の映画は「感動」というキーワードを、いろいろな角度から考えさせられた作品でもあった。
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