前回のこのブログで「自立している女性は美しい」と言った。
1000㏄クラスの大型バイクに跨り、そこに厳選した道具を積み込み、富士五湖の自然を堪能して帰って行く。
一陣の風のような爽やかさを感じさせる動きだった。
ちょうど昨年の今頃、一人の女性がやはり富士五湖周辺でアウトドア・スポーツを楽しむ為にやってきた。彼女はアドベンチャーレースで世界を舞台に活躍する女性で、一緒に初夏の富士北麓を駆け回ろうということになった。
この時も、彼女は我々にほとんど質問らしい質問はしなかった。
で、バスで来るというので河口湖の駅に迎えに行った。そしたらMTBを入れた輪行バッグと大きなザックを持って笑顔で立っていた。そのザックの中を見てボクは目を丸くした。そこには様々なアウトドア・スポーツを楽しむことのできる道具とウエア一式が入っていた。
彼女の期待(?)通りに、我々はMTBで樹海を駆け抜け、山を走り回り、山の中、森の中、我が自宅、様々な場所で飲み、食い、会話を楽しんだ。そしてまた大きなザックと自転車を担いで彼女はバスに乗って帰って行った。
さてここからは恋愛や結婚の話。
最初に断っておくが、今回、紹介したバイクの女性たちやアドベンチャーレースの女性のことを言っている訳ではない。
自立した素敵な女性が我が家にはよく集う。趣味はそれぞれで、皆が皆、男勝りということではなく、音楽や料理などの分野で活躍する人もいる。が、いずれにしても他者に依存することなく自立している。で、一般的にそういう女性は婚期や結婚生活において、些か平均とは違う。
「平均とは違う」と言っても、なにを基準にしているのか自分でも曖昧なのだが、明らかにすべての行動にイニシアティヴを取り、きちんと責任を背負っているので、ちょっと頼りない男だと物足りないような雰囲気を持ちあわせている。しかもそれでいて皆ルックスもいい。
昔から「人」という字体を指して、「互いに寄り添って生きる」だとか、「人と人の間にあってこそ人間」とか教えられて来た。その考えはもちろんよく理解できるが、互いに依存しあうような人間関係ってどうなんだろう?
人として確固と自立して、その自立の上に他者を心から愛し、尊敬し合い、時として支えあう方が、当人たちにとっても素晴らしい関係を構築できるのではないか?
「あなたが居なければ生きていけない」ではなく「一人でも生きていけるが、あなたがいればよりよい人生を切り開くことができる」と考えるほうが、はるかに素敵だと思うがどうだろう?
ちなみにボクは山などに行くときに、女性の荷物を持ってあげるような優しい行動はぜったいにしない。それはある意味で優しさかもしれないが、彼女たちを馬鹿にした行動でもあると思う。そしてそういう優しさを喜ぶ女性とは野山を一緒に駆けまわりたいと思わない。
そういう突き放した態度だから自立した女性が周囲に集まるのか? それとも自立した女性が集まるから、自ずとそういう態度になるのか?
鶏が先か卵が先か? それは自分でも判らない。
はじめてコメントさせていただきます。
私はどうしても日本人が自分の名前をローマ字で書くときに
TokichiKimuraと書く事に抵抗(欧米に合わせてる)があります。
ウィル・スミスは日本語でもスミス・ウィルとは書きませんよね。
おかしいと思いませんか?
KimuraTokichiでいいと思うのですが・・・・
いかがでしょう。