人はいったい誰と繋がっていたいのだろうか?
今、現実に目の前にいる人か? あるいは初恋の人なのか? それともまだ見ぬ誰かなのか?
以前はものごとがもっと単純だった。
仕事に行けば仕事仲間がいて、家に帰れば家族がいた。ジムに行けば一緒に汗を流す人がいて、週末には趣味を共有する友がいた。
自分の居る場所で気分を切り替え、それに対応すれば良かった。
が、今は違う。
自分の部屋に居ながら遠く海外にいる人々(おまけに時差もありながら)と繋がっていたり、日常の雑事に追われながら、もう何十年も会っていない幼き日々を過ごした友と、情報を共有している。
昔から電話が嫌いだった。
電話がかかってくる。自分のその時の精神状態に関わらず、突然、その電話をかけた主の感情に世界が覆い尽くされる。愛しい人からの電話なら、その世界は恍惚の時に包まれるが、生憎、そういう状況は稀である。
だからEメールがこの世に現れた時には感謝した。
メールチェックの時に心の準備ができる。自分の気持ちを整理して伝えることができる。おまけに写真などの添付書類を添えて、より多彩に感情を伝えることが可能になった。
だがそのEメールの出現からわずか十数年で世界は変わった。
写真などの静止画は当然のこと、動画、音楽までもが共有でき、それは国境や時差を超えて、一瞬にして世界の果てまで飛んで行く。すべての人々がメッセージツールを所有し、掌に収まる小さな機械で、世界に向けて発信できる。マウスを一回クリックするだけで人の行動を評価し、それによって一喜一憂する。そしてそれが、自分のまったく知らないどこかの国のどこかの企業のマーケットリサーチに繋がり、新しい商品が開発され、いつしかそれを手に入れる。
きっともう誰にも止められないし、より加速することだろう。
だが、だからと言って、そのまま時流に乗るほど自分は素直ではない。まったくなんの影響がなくとも、独り、反旗を翻すのも悪くはない。そういう小さな積み重ねが、いずれは現状の混沌としたSNSカオスをいい方向に淘汰していくかもしれない。いい意味でも悪い意味でも、知らず知らずのうちに、我々はそうやって自らSNSを育てて行くのだ。
と言うことで、一旦はFacebookと別れを告げよう。
亡くなった姉の娘、つまり姪との交流から始めたFacebookだが、いつの間にか多くの人たちと繋がり、それはそれで貴重な時間や交流を手に入れた。そのことには深く感謝している。
Facebookを辞めると宣言してから、多くの「友達」から有難いメッセージを多数頂いた。なによりも嬉しかったのは「綺麗な写真をいつも楽しみにしていた」という意見が多かったこと。これは写真の技術に対しての褒め言葉ではなく、いかに自分が素晴らしい環境の中で暮らしているか・・・ということの評価であった。
その素晴らしい環境をもう一度再確認して、今後もあるべき形でメッセージを発したいと思っている。
ホントにみんな有難う! また逢う日まで!
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