Facebookの「タイムライン」は、例えて言うならば「自分の家の庭」のようなモノである。
その庭に花が咲いた、果樹がなった、害虫がいるから駆除した、鳥が巣を作った、雑草を抜いた、友人がお茶を飲んでいった...と言った日常の風景や自分の感想を紹介する。
そしてその庭を訪れた友人たちが、それぞれに感想を言う。もちろんその感想はほとんどが肯定的な意見である。まさか面と向かって「この樹木は植えるべきではない」とか「この鉢は安物だ」とか、訪れた他人の庭で、それを指摘する人は少ないだろう。例えそうは思っても、あるいはホントにその意見が正論であっても、自分の家に帰ってから、眠る前に夫なり妻なりに、正直な感想を述べれば良いのだ。
ところが時々、そういう自分の意見の正当性を、他人の庭で繰り広げる人がいる。しかもその意見は、明らかに主題から外れた、アゲアシを取るような意見である。
例えばこういうことだ。
ある人が庭に咲いたバラを自慢するとする。そのバラを育てる過程で、害虫の駆除の話をする。害虫駆除の他にも、バラは時には思い切った剪定も必要で、美しい一輪のバラを育てるためには、他の蕾を切ることもよくあることだ。
そのように苦心して育てたバラを紹介して、多くの友人がその美しさを褒めている中で、ある人物がシタリ顔で、否定的な意見を言う。しかもバラの色や種類、それに美しさについてではなく、害虫駆除の是非などを訴える。または切り取られた蕾が可哀想だ、などと指摘する。
繰り返すが、タイムラインは自分の庭みたいなモノである。
時にはその庭を下着やパジャマで歩くこともあるだろうし、前夜に呑んだワインのボトルが転がっているかもしれない。だが多くの人は優しく微笑みながら、友の小さな失敗や失態をユーモアで笑い飛ばし、その中の明るい側面だけを見出そうとする。
そういう思い遣りを基に「社交的なネットワークサービス」、つまりSNSが成り立っている。
その「社交の場」に於いて、いきなり博識、博愛を訴える人が現れると、そこに居合わせたメンバーは誰しもが気まずい思いをすることに、その人物は気付いていない。そして厄介なのは、その指摘が一見、「愛と正義」に溢れているかのように聞こえることだ。要するにどこのクラスにも居た、KYの風紀員のような存在なのだが、風紀員という立場上、誰もが逆らえない...というような存在である。
まあ百歩譲って、その人物の意見が正しいとしよう。が、さきほども言ったように、その意見は自分の庭か寝室で繰り広げればいいのだ。
あるいは、Facebookには「メッセージ」という便利なシステムも付属する。それらを使って、友人に後からそっと優しく助言を施せばいいのである。そういう思い遣りがあってこそ、気持ちのいい「社交場」が成り立つのだ。
歯の浮くような美辞麗句は必要ないが、少なくとも「その場の空気が読めないで、皆をしらけさせる」自分の考えの押し付けは、勘弁して欲しいのである。
で、最後に本音を言わせて貰えれば、そういう人物に限って、こちらは自分の庭に招いた覚えはないんだよねえ...
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