時々、自分自身に問いかけることがある。
「自分はロマンチックかそうでないか?」
いきなりどうしたんだ? と言われそうだが、理由はこうだ。
最近、フェイスブックを通じて自分の子どもたちが、クリスマスをそれぞれのパートナーとディズニーランドで過ごす計画があることを知った。我が家の子どもたちはディズニーランドがとても好きで、幼いころから妻がよく連れて行ったが、成人してからもパートナーとよく行っているようだ。
ボクはどちらかと言えば、あまりそのような場所で過ごすのは苦手だ。特にクリスマスなどは。
なぜか?
そこにいる自分を想像するだけで照れてしまう。元来、照れ屋である。(いや、ホント)オマケに根は大阪人だ。大阪人たるもの、ロマンチックな雰囲気に包まれて、そのままどこにも落ちない話は我慢できない。どこかでその雰囲気の自分に対して、なんらかの「ツッコミ」を入れなければならないと感じている自分がいる。
それでは大阪人にロマンチックな人間は居ないのか?
そういうことはないと思う。
話は変わる。
次男が中学生だった頃、英語の教師をしていたブルガリア人の友人がいる。その彼はとてもロマンチックで、美味しい料理を作り、ワインのウンチクを述べ、詩を語った。だが彼のロマンチックの本質は次のような意見の中にあった。
「ロマンチックとはなにか? もちろん女性を優雅なレストランに誘い、美しい花束を贈ることはロマンチックだろう。だが朝早くに嫌がる彼女を叩き起して、朝焼けの瞬間を眺め、その後、早朝から皆が働いている市場に出かけ、新鮮なモノをそこで手に入れ、それでクッキングして一緒に食べる方が遥かにロマンチックだと思う」
たしかにこのアイデアなら大阪人も納得できる。
もう少し言わせて貰いたい。
誰かが「これはすごくロマンチックな空間だ」と思って演出する世界に安易に足を踏み入れ、「とてもロマンチックだろ」と悦に浸っている自分が許せない。もっと言わせて貰えれば、ロマンチックは偶然の産物であるべきだ。
早朝に走りに出る。
朝から心肺機能を酷使して、心臓が口から飛び出しそうになるのを堪えながら走る。が、その瞬間、太陽が地平線から顔を出し、世の中を希望の輝きで包み込む。もちろんこれは確約されることではない。雨の早朝もあれば、灰色に包まれた朝もある。
あるいは一日の厳しい労働を終える頃、ふと見上げると夕陽が街を優しく暖色に染める瞬間、または寒さに震えて家路を急ぐ時に、見上げると満天の星が輝いている...そういう瞬間を共有する時に限りなくロマンチックな気分になる。
つまり誰かが考案した、最大公約数で確約されたロマンチックな空間には興味がないのだ。しかもボクがロマンチックと感じる瞬間は、相対的な状況の中でこそ輝きを見せるので、その前後はいろいろな意味で厳しい状況が好ましい。
なんてことを言うと「あなたにはついて行けません」とすぐに言われてしまうが、これこそがボクの追い求めるモーメントである。
やっぱり自分はロマンチックではないのか...
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